概要
生没年:建保3年(1215年)~文永9年2月11日(1272年3月11日)
北条氏の有力庶家である名越流北条氏に生まれ、後にその家督を継いだ事から、「名越時章」とも呼ばれる。父は北条朝時(北条泰時の長弟)。「宮騒動」の首謀者である名越光時を兄に、「二月騒動」において自身と共に滅ぼされた北条教時らを弟に持つ。
生涯
穏健派として
名越流北条氏は、その家格・勢力共に本家たる北条得宗家に次ぐものを有していた上、家祖である父・朝時が元々北条氏本家の嫡男と見做されていた事もあってか、「本来は北条氏の嫡流である」との意識もまた強く持ち合わせており、こうした背景から兄・光時が引き起こした「宮騒動」を始め、得宗家とはしばしば反目し合う関係にあった。
そのような家風の中にあって、時章自身は(状況故にそうならざるを得なかった面も多分にあろうが)どちらかと言えば得宗家との協調を志向していた、当時の名越流の中では異端とも言える人物であった。前述の宮騒動の折には、首謀者たる兄・光時が流罪に処せられ、同じく急進的な反得宗派であった次弟・時幸が自害に追い込まれる中、時章は長弟の時長らと共に執権・北条時頼に対して異心のない事を示し陳謝しており、そのため前出の二名とは異なり特に罰せられず事なきを得ている。
兄の流罪に伴い名越流の2代目当主となった後、宝治元年(1247年)には早くも評定衆に列せられ、さらにこれと並行して引付頭人(御家人の領地訴訟の対応に当たる役職)も務めるなど、幕政の中枢に関与。先代・朝時以来の将軍家寄りな姿勢を維持しつつも、その一方で得宗家との関係改善にも腐心し名越流の政治的な復権も図っており、時頼没後もその息子である時宗の治世を支えた。
二月騒動
こうした時章の働きにも拘らず、名越流の内部には得宗家に対するなおも反抗的姿勢が燻り続けていた。この頃の反得宗派の最右翼とも言える存在は前出の弟・教時であり、文永3年(1266年)に6代目将軍・宗尊親王が解任の上京都へ送還された折には、これに断固反対していた教時が軍兵を率いて示威行為を行い、執権・時宗より叱責されるという事件も発生するなど、得宗家との関係も決して盤石とは言い難いものがあった。
そうした緊張関係を打ち破る事件が発生したのは文永9年(1272年)の事であった。同年2月7日に鎌倉市中で発生した騒動をきっかけに、弟・教時に謀反の嫌疑がかかると、2月11日には時章の元にも追討の手が伸び、執権・時宗の命を受けた御内人(得宗家家臣)ら5名によって殺害された。享年58歳。
この事件の直後、時章は謀反とは無関係であることが判明し、時章邸を襲った5名は9月に斬首に処され、遺児である公時も所領を安堵されるに至っている。その後公時は評定衆に、孫の時家も鎮西探題・引付衆に任じられるなどして名誉を回復、名越流の子孫は以降も幕府滅亡まで要職を歴任する事となる。
騒動の真相と背景
前述の通り時章の追討に当たったのが御内人であった事からも分かるように、二月騒動にて時章・教時兄弟や北条時輔(時宗の異母兄、当時六波羅探題南方として在京の身であった)の討伐に積極的だったのは執権・時宗その人であった。
この事件の背景にあったのは、当時現実味を帯びつつあった蒙古襲来を控え、幕府内の反得宗勢力を一掃し執権による権限の一元化を図りたい、という幕府首脳陣の思惑である。蒙古への対応について時章自身がどのような立場や見解を有していたのかは定かではないが、この当時の時章は筑後や大隅など九州諸国の守護職も兼任しており、仮に蒙古襲来が現実のものとなった場合、真っ先に蒙古軍と戦端を開く事となる九州において、時章を始め名越流の者たちが現地の御家人を指揮する立場となる可能性も十分にあった。
こうした異国警固の現場責任者たる立場を背景として、名越流が幕府内での影響力を強める事への危惧から、時宗ら幕府首脳陣は当初より教時の謀反を口実として、本来無関係であったはずの時章をも誅殺、その所領であった九州諸国を収公する腹積もりであった(実際、時章の死後これら九州諸国の守護職は安達泰盛ら幕府首脳陣が務めている)と考えられている。
時章の死は、結果的に執権・時宗による得宗専制の強化に繋がったと同時に、それまで一門内で独自性の強かった名越流が、明確に得宗家に従属する契機ともなったのである。
種子島氏
鉄砲伝来で知られる戦国大名・種子島時尭の家紋は「北条氏」と同じ「三鱗」であるが、これは元々種子島氏が名越流北条氏の家人であった事に由来する、と伝えられている。
関連タグ
アンゴルモア元寇合戦記・・・時章は同作の主人公・朽井迅三郎と仲が良かった。
名古屋山三郎…時章の子・公時の子孫とされる。
高倉健…時章の子孫を自称しており、北条氏所縁の地に奉納などを行っていた。