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長坂釣閑斎の編集履歴

2020-06-28 00:50:03 バージョン

長坂釣閑斎

ながさかちょうかんさい

長坂釣閑斎とは戦国時代の武将で、武田家の有力な家臣である。永世10(1513)年〜天正10(1582)年。

概要

長坂釣閑斎は、甲斐武田家の重臣であり、小笠原家の庶流の長坂家の嫡男として1513年に生まれる。幼名は不明だが、元服後は光堅(みつかた)と名乗ったらしい。


しかし、資料に名前が出てくるのは晴信(武田信玄)が武田家の家督を継いだ1541年以降である。資料自体が少ないのではっきりとした活躍は不明だが、高い行政能力持ち、晴信からの信頼を勝ち取ったようで、1548年に上田原の戦いで武田家譜代の重臣板垣信方が討死すると、彼の務めていた諏訪郡代の役職を齢36歳の若さで命じられている。

1550年代前半は、どこの城主かは不明だが、諸角虎定真田幸隆らと北信濃で村上氏についた豪族や国人の調略を担当していたらしい。1559年に晴信が出家し「信玄」と名乗ると、光堅も出家し「釣閑斎」と名乗る。

1560年代は、詳しい活動は不明だが、釣閑斎と思われる人物が武田家において、内政を担当していた。また、川中島の合戦箕輪城攻めと言った合戦に出陣していたらしい。 また、信玄の嫡男の武田義信が守役飯富虎昌謀反を起こした際には、甥の長坂勝繁が謀反に加担するも、山県昌景と共に信玄に密告したとも言われている。義信の謀反により、信玄の四男武田勝頼が武田家の跡継ぎとなると、勝頼に気に入りの家臣となる。

1573年に信玄が病死すると、武田家の重臣として、跡部勝資共に勝頼を内政や外交に関する補佐を行った。なお、勝頼を嫌う重臣の内藤昌豊真田昌輝とは激しく対立したと伝えられる。

そして、明くる年の1575年に長篠の合戦が起き、信玄譜代の重臣が討死したため、事実上の武田家筆頭家老のような立場に置かれることになる。

その後も長篠の敗戦を立て直し、勝頼を善く補佐するも1579年に徳川方に高天神城を奪われ、小館の乱により、北条家と対立。そして、1582年の織田軍による甲州征伐の際に、勝頼に最期まで付き従い、天目山の合戦で討死した。享年70歳。


長坂釣閑斎は奸臣だったのか?

長坂釣閑斎は一般的に、主君である勝頼におべっかを使い、自分の出世や地位の為なら、ありもしない讒言で周りの人間を陥れ、武田を見限った奸臣としてのイメージが強い。高坂昌信の証言を元に書き出したとされる武田家の資料の甲陽軍鑑には、「釣閑斎は口が達者なだけで信用が出来ない奴と信玄は




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