概要
生い立ち
単父(山東省)の名士・呂公の娘として生まれた。ある時、父の呂公が宴を催していたところ、「オレの手土産は一万銭だぜ」とハッタリを言いながらやって来た劉邦と出会った。父の呂公が彼を気に入ったことから劉邦に嫁ぐこととなった。
その時、呂雉は占い師から「貴婦人の相がある」と言われたり、山奥へ逃げた劉邦の行先が分かったりと不思議な現象が起きていた。その後、劉邦との間に劉盈(のちの恵帝)と魯元公主を産んだ。項羽との戦いが起きた際に劉邦の父と呂雉は捕虜になってしまうが、紀元前203年に両者との和解が成立して無事に夫と再会した。
女の復讐
翌年の紀元前202年、劉邦の即位と共に呂雉は皇后となり、子供達も皇族として名誉ある地位が与えられたが、脅威が迫っていた。劉邦の愛人である戚夫人が、我が子劉如意を次期皇帝にすべく工作をしていたのだ。我が子を守ろうと呂雉は奮起し、張良の進言で劉盈を皇太子にするが、憎しみは強く残った。
紀元前195年に劉邦が崩御すると劉盈が恵帝として即位し、呂雉は皇太后になって体制強化と言う名の粛清に乗り出した。劉邦の長男・劉肥は領土返上と、弟の恵帝に助けられて処罰を逃れたが、戚夫人と劉如意は悲惨な末路を迎えた。
如意は兄の帝がいなくなった隙に呂雉に毒殺され、戚夫人は四肢を切断された上に視覚と聴覚、声を奪われてから、人彘(じんてい。人豚)と称して厠に放り込むと言う残忍な方法で処刑された。特に後者を見せられた恵帝は、トラウマの余り政務を放棄して酒色にふけってしまった。それから程なくして、恵帝は23歳(もしくは26歳)で崩御した。
呂政権の盛衰
我が子と帝国を守ろうとした呂雉だったが、皮肉にも愛息恵帝を20代の若さで失うこととなった。それ以降、劉邦の庶子を粛清させたり、自分の一族を朝廷の要職に付けるなど暴走していく。彼女は紀元前180年になくなる時も兵権を一族に握らせることで帝国の安泰を図り、一門の繁栄を望んでいたが、それはもろくも崩壊してしまった。
過度の粛清と弾圧に、陳平や周勃ら劉氏の忠臣は亡き恵帝の弟を擁立してクーデターを引き起こし、呂雉の遺族を壊滅させた。呂雉が身内すら犠牲にして打ち立てようとした盤石政権は、ここに消えたのだった。
評価、逸話など
- 夫の死後に権勢をほしいままにした事や戚夫人と如意への仕打ち、息子の皇帝まで病死に追い込んだことなどから評価は決して高くはない。男尊女卑的な風潮が強い中国では「朝廷の実権を握り、男性の皇帝や王を圧迫した女」と言うことから、妲己・武則天・西太后と並ぶ悪女として扱われている。
- 史記を記した司馬遷は、呂雉が起こした問題を厳しく非難し、「天下に隠れもない悪逆」と断じる一方で、彼女が権力を握った時期は善政が敷かれて民衆が平和に暮らしたことを記録し、その手腕を称えてもいる。また、同書に本紀(帝王一代の事績)を設けられるほどの存在として記されるなど、重く見られてもいた。
- 残虐な殺し方や陰謀を駆使したことで悪名高い呂雉だが、その事例を記録した歴史書を編纂したのが呂氏政権を征伐した漢王朝であるため、漢を正当化するために悪事を誇張化されたとも言われている。人彘事件が記されている史記も、呂氏を倒した漢の歴史書である。