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仁科盛信の編集履歴

2021-02-08 19:10:18 バージョン

仁科盛信

にしなもりのぶ

戦国時代の武将。武田信玄の五男。名は信盛とも。

生没年 弘治3(1557)年~天正3(1582)年


概要

武田信玄の5男で、側室の油川夫人の子。

通称は五郎。受領名は薩摩守(自称)。

同母妹に松姫織田信忠婚約者)や菊姫上杉景勝正室)らがいる。


永禄4(1561)年に信濃・安曇郡を領有する仁科氏の名跡を継ぎ、信越国境の守備に当たっていた。


それが一変するのは、異母兄・武田勝頼の代になってからである。天正7(1579)年に勝頼と上杉謙信の間で同盟が締結されたこと、謙信急死後の御館の乱の結果、武田は織田信長徳川家康北条氏政に包囲される格好となり南と西に注力する必要が生じてきたのである。

そこで勝頼は、天正9(1581)年に盛信を南信濃の高遠城主に任命した。高遠城はかつて勝頼が城主を務めた伊那地方の重要拠点であり、ここを敵に制圧されれば中信地方のみならず、諏訪地方から甲斐への道も開けてしまうことから、盛信がそれだけ勝頼に信頼されていたことがうかがえる。

ちなみにこの時期の発給文書では諱を盛信から信盛に改めていた模様である。

高遠城の戦い

天正10(1582)年2月、木曽義昌の謀反を皮切りに織田信長・信忠が木曽・伊那方面から、徳川家康が駿河方面から武田領への侵攻を開始した。2月末までに南信濃の諸将は降伏・逃亡によって織田軍の軍門に下り、残るは高遠城のみとなっていた。

3月1日に信忠が率いる織田軍3万が高遠城を包囲し、開城を促す使者を送り込むも信盛は敢然と拒絶、翌2日に織田軍の攻撃が開始された。

高遠城に籠る武田軍は老若男女合わせて3千、10倍の兵数差をものともせずよく戦ったが、屋根上から攻め入った森長可の攻撃をきっかけに形勢が一気に悪くなりその日のうちに落城、城兵はほぼ全滅し信盛も自害して果てた。


それから10日後の3月11日に、勝頼と嫡男の武田信勝も自害し、武田家は滅んだ。武田家最期の1ヵ月半でまともな戦いが行われたのは結局高遠城のみであり、信盛(盛信)は武田家最後の意地を見せることになったのであった。

子孫は江戸時代になり家康に召し出され旗本になったとされているが、はっきりしたことはわかっていない。


ちなみに長野県歌「信濃の国」では「仁科の五郎信盛」と歌われ、木曾義仲・太宰春台※・佐久間象山らと並び長野県では英雄扱いされている。


※江戸時代中期の儒学者・経世家


関連タグ

戦国時代 中部勢

武田信玄…父

武田義信武田勝頼…異母兄

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