概要
奇抜な言動を好み豪奢で目立つ装束を身につける等、常識を逸脱した行動に走る者を指す。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。
但し、単なる目立ちたがりとは趣を異とし、仲間同士の結束の高さ、退廃的な社会風潮に対する反骨精神などの表れでもあった。
「派手な振る舞いをする男」「派手な出で立ちの男」と言う意味も暗に含む。
時代に拠っては「バサラ」(婆娑羅と漢字表記する)、「伊達男」(戦国武将・伊達政宗に由来)等とも呼ばれる。
影響
歴史上での有名な傾奇者としては前述の伊達政宗の他、前田慶次(前田慶次郎利益)が挙げられる。
傾奇者として生きる彼等は仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持ち合わせていたとされている。
反面、「常識に囚われず自由に生きる」といった名目を良い事に、傾奇者を気取っている人間達の中には、飲食代の踏み倒しやカツアゲ、婦女子への乱暴狼藉等も平然と行うだけでなく、それを自らの武勇伝として自慢する等、社会秩序を軽んじた振る舞いや問題行為に走る者が多かったのも事実である。
更には、辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、博打だけでなく、修道や喫煙の風俗とも密接に関わり、遊郭等で用心棒も務めていたとされている。
その結果、将軍の代が徳川綱吉あたりの時期になってからは、幕府による傾奇者を称する人間達の取締りが厳しくなっていき、廃れていく事になる。
現在も、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢達に、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれ、今日に至る。
猪熊事件
1609年に巻き起こった、歴史上における傾奇者絡みの事件の中でも「最悪」とされる一大不祥事事件。首謀者となったのは、左近衛少将の官位を持つ公家の猪熊教利である。
教利は公家でありながらも慶次に負けじ劣らずの「傾奇者」される人物であったが、『源氏物語』の光源氏を想起させ「天下無双の美男子」と称される程の容姿端麗であり、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる等、ある種のカリスマの持ち主でもあった。
しかし、教利は「致命的」とさえ言えるまでに女癖の悪い人物でもあった。
教利は自分が見初めた女は人妻はおろか宮廷の女官にさえ手を出すという見境の無さを見せており、公衆でも「公家乱行随一」として有名な程の問題児ぶりを見せていた。そして自らの行いを顧みなかった教利は、遂に朝廷に仕える歯科医であった兼康頼継と結託する形で、多くの公卿や女官を言葉巧みに唆し、あらゆる場所で集団姦淫を行うという売春の斡旋紛いな乱行まで引き起こした。
当然、こんな大騒動が明るみにならないはずなど無く、公家でありながら朝廷の名誉や品位を著しく汚す秩序破壊行為を行った教利の乱行を聞かされた後陽成天皇や江戸幕府の初代将軍である徳川家康は激怒し、朝廷に仕える女官の一人であった娘が教利に唆されて乱行に加わった事を聞いた内大臣の広橋兼勝も、その場で愕然としたとされている。
事件の発覚後、後陽成天皇に処分を一任された家康は、直ちに教利の捕縛命令を出し、同じ傾奇者として通じ合っていた織田頼長からの教唆を受けた教利は西方へ逃亡。朝鮮への脱出を試みたが結局は囚われ京都へ連行されてしまい、最終的には頼継と共に事件の首謀者として斬首に処せられた。
なお、教利に唆された者達への処分に関しては、あまりに多くの人間が関わり、全員を死罪にすれば大混乱を招く可能性があった為、調査を行った板倉勝重と家康が慎重に処分の検討を行った末、殆どが「配流」、残された高い官位の人間達は「恩免」という裁定が下された。
事件後、教利や頼継以外への手緩い処分に大きな不満を抱いた後陽成天皇は、朝廷内の風紀の乱れっぷりに嫌気が刺した事もあってか、天皇の地位の譲位を度々口にするようになってしまった。
また、幕府側も公家の乱脈ぶりを憂慮し、公家統制の重要性を感じた結果、大坂の陣の終結後に「公家衆法度」及び「禁中並公家諸法度」を制定するまでに至った。
良くも悪くも、この一大不祥事事件によるその後の朝廷や幕府の影響は非常に大きかったと言える。