松下村塾とは、江戸時代末期に長門国・萩に存在した私塾。
その前身は吉田松陰の叔父・玉木文之進が設立した私塾であり松陰自身も幼少期に学んだ。松陰の外叔父・久保五郎左衛門をへて、安政4年に松陰がその後を継ぐ事になる。
維新志士たちを数多く輩出した塾であった。
松陰死後は中絶していたが慶応二年に再開。のち玉木文之進が再び主宰するが、元塾生・前原一誠が起こした萩の乱に塾生の多くが加わった上に、文之進の養子・正誼(乃木希典の弟)や松陰の甥・小太郎を始め玉木家・吉田家・杉家の人間も多く関与し戦死したためそれらの責任を取り自刃して閉塾。その後は松陰の兄・杉民治が再々度主宰したが教育勅語の発令と民治の引退もあり完全に閉塾した。
建物は、現在も残っており、山口県萩市の松陰神社敷地内に存在する。
主な塾生
吉田寅次郎(→松陰、のちの主宰者)
吉田栄太郎(稔麿)
伊藤俊輔(博文)
山縣狂介(有朋)
佐世八十郎(前原一誠)
山田市之允(顕義)
この中では久坂と高杉が「双璧」と呼ばれ、これに稔麿を加えて「三秀」、そこに入江を入れて「四天王」と称された。
一方で松陰の友人である桂小五郎(木戸孝允)、松陰門下生と親しかった井上聞多(馨)は松陰門下生と間違われやすいが、この二人に乃木希典は松下村塾で学んだことはない。ただし、乃木は玉木文之進の親類で一時期玉木家の住み込み弟子として師事を受けたことはある。