概要
来歴
なにぶん古い時代の馬だが、兎に角現代の基準でも当時の基準でも無茶苦茶な記録ずくめの競走馬である。
まず何といっても彼女を語る際に外せないのは変則三冠である。(内訳は日本ダービー、オークス、菊花賞)
デビューが遅れて皐月賞、桜花賞(の前身競走、当時は中山四歳牝馬特別と称する)には間に合わなかったのだが、5月にデビューするや圧倒的な勝ちっぷりを見せつけ連闘で、ダービーに出走、何とレコード勝ちをしてしまう。
この強さから、管理する尾形藤吉調教師は、クリフジを
「古今を通じて、これほど強い牝馬はいないという巴御前のような」
とその力を評した。
その後も出れば勝つと言った有様で、当時秋に行われていたオークス(これも前身競走で当時は阪神優駿牝馬と称する)も勝ち、さらには菊花賞も勝つという、11戦中7戦が大差勝ち、なお80年以上に及ぶダービーを牝馬が制し例は彼女を含めわずか三頭、菊花賞は二頭のみである。
当時は折しも戦争中で出走馬の質も量も低下しており、10頭立てを越えたのは3回だけだったが、無茶苦茶なローテーションも斤量も牡馬相手も苦にせず無敗での引退は十分に伝説と言ってもよく、現在も国営→中央競馬での11戦生涯全勝は最多記録として残っている。また、ダービー・菊花賞の二冠馬となったのも、クリフジ以外では1973年のタケホープ(ハイセイコーのライバルとしても知られる)しかいない。
また、すべて鞍上をつとめた前田長吉騎手は、当時まだ見習い騎手だったが、所属した尾形藤吉厩舎の主戦騎手だった保田隆芳らが太平洋戦争に出征していた事情もあり、結局クリフジの引退まですべて騎乗した。その後前田も出征するが、捕虜となりシベリア抑留となってしまい、1946年に現地で23歳の若さで病没してしまった。その存在は伝説となっていたが、2005年に抑留者の墓の遺骨のひとつが前田のものと判明し、遺骨は帰国、その後遺族のもとに戻り、現在は墓に納骨されている。
クリフジは引退後『年藤』という名前で繁殖入りし、代表産駒としては二冠牝馬ヤマイチがおり、また産駒のシモフサホマレから出た牝系が現在も残っている。余談ではあるがクリフジの馬主は栗林商船の当時の社長栗林友二で、『服青・赤袖・茶たすき』の勝負服のもと、クリフジの後も「クリ」の冠名をつけた馬が多く活躍した。1990年代に当代きってのステイヤーとして活躍したライスシャワーも馬主は友二の子息・栗林英雄で、クリフジと同じ勝負服である。
1964年にクリフジは老衰で死亡、奇しくも同年はシンザンが戦後初の三冠馬になっている。
1984年、顕彰馬に選定。東京競馬場に併設された競馬博物館内の殿堂コーナーに収蔵されているクリフジの繁殖登録証は、他の顕彰馬とちがい当時の書類がそのまま保管されている。
近年ウオッカが日本ダービーを制するまで半ば忘れられた名馬だったが、彼女が64年ぶり牝馬でのダービー制覇を行い、にわかにその偉業に注目が集まった。
pixivに於けるクリフジ
白黒写真しかない時代の馬だが、主に競走馬擬人化イラストが投稿されている。時代を反映させての大和撫子の様なデザイン、圧倒的な成績の無敗の牝馬という点を反映させてか威圧感の有る女傑のようなデザインの二通りが投稿されている。