概要
越後国の池谷村(現在の新潟県十日町市池谷)の近辺に出没したという謎の獣。
江戸時代後期の書籍「北越雪譜」でその存在が紹介されている。
猿に似ているが猿ではなく、人間の言葉は話さないが理解はできるという高い知能を持つ。
人間に対しては友好的であり、よく飯をねだってくるがその恩を返すこともあるという義理堅い妖怪である。
特徴
容姿
前述のように猿に似ているが猿ではない。顔は赤くなく、背丈は並の人より高い。
全身が毛に覆われている。頭の毛は特に長く背中まで伸びていて、半分ほどは白髪である。
また、眼が大きく光っていたという。
これらの特徴から類人猿、もしくはイエティのような容姿をしていたと推測される。
能力
身体能力に優れ、風のような速さで山を駆け上ることができる。
荷物を背負ってもそれがないかのように険しい山道を進んだとも書かれている。
また妖術的な力も持っていたようで、「娘の月経を一時的に止めた」とされている。
決していかがわしいものではなく、その必要がなくなるときが来れば再開するようになっていた。(後述)
北越の異獣
越後国の北部(北越)、特に魚沼郡について詳しく紹介している書籍「北越雪譜」二編の第四巻で異獣の目撃談が紹介されている。
北越雪譜は江戸時代後期頃の書籍だが、異獣の話自体は江戸時代中期のものである。
第一の目撃談
ある夏の初め、北越雪譜の執筆より4~50年ほど前の話。
魚沼郡堀内(現在の新潟県魚沼市)の問屋から十日町の縮問屋へ白い縮織を運ぶため、山道を歩いている屈強な男「竹助」がいた。
彼はその道の半ばで近くの石に腰を掛け、お弁当の焼き飯を食べて休憩しようとした。
そんな竹助のところへ谷間の草むらの中から奇妙な獣、異獣が現れ近づいてきた。
驚いた竹助は持っていた山刀を引っ提げて「近づいたら斬るぞ!」と脅したが効果はなく、異獣の方は石の上に置かれていた焼き飯を指さしていた。
焼き飯を欲しがっていることを理解した竹助はそれを投げ与えてやると、異獣は嬉しそうに食べ始めた。
その姿に心を許した竹助はさらに焼き飯を与え、
「俺は堀内から十日町へ行く者だ。その帰りにまた焼き飯をやろう。急いでいるからもう行くぞ」
と言って降ろしていた荷物を背負おうとした。
すると異獣は代わりに荷物を背負って先に進み始め、竹助はその後について行くことで険しい山道を楽に進むことができた。
目的地の近い池谷村付近へ来たところで異獣は荷物を降ろし、山の中へ去って行った。
竹助は十日町の問屋に着くと異獣のことを詳しく語り、その話が今まで伝わった。
この頃に山で仕事をする者の中には、たびたびこの異獣を見た者がいたようである。
第二の目撃談
池谷村に機織りの名手とされ、名指しで縮織を注文されるほどの娘がいた。
彼女が機を織っている途中、近くの窓の外に異獣が現れた。
その時家は彼女一人きりであり、恐怖も増して必死に逃げようとしたが機織りの最中だったので邪魔になるものが多くそれもうまくいかない。
そうこうしているうちに異獣はかまどの方へ移動しており、おひつを指さしていた。
娘は異獣の噂を聞いていたので、おにぎりを2~3個作ってあげた。すると異獣は喜んでそれを持ち去った。
異獣は娘以外が家にいないときにたびたび現れるようになり、そのたびに娘はおにぎりをあげた。
そうするうちに娘は異獣を怖がらなくなっていった。
ある日、この娘に縮織の重要かつ急ぎの注文が入った。
彼女はその注文の縮織を織っていたが、その途中で月経になってしまう。
当時経血は穢れたものとされ、逆に機織りをする部屋は神聖なものとされていたので彼女は機織りができなくなってしまったのである。
彼女も両親もこのことを嘆き、どうしようと悩んでいるうちに三日が経った。
その三日目の夕暮れ、両親が出掛けていたので久しぶりに異獣が家に現れた。
娘はおにぎりをあげながら、今の悩みについて異獣に語った。
すると今回の異獣はすぐには立ち去らず、少し考えこんだ様子を見せた後ようやく去った。
この時から何故か娘の月経が止まったので、彼女は不思議に思いながらも今のうちだと急いで身を清めて縮織を仕上げた。
仕上がった縮織を父親が問屋に届けたあたりで、娘の月経は無事再開した。
「きっとこれは私の悩みを聞いた異獣が助けてくれたんだ」
と娘は語り、話す本人も聞く人々も不思議な思いをしたという。
この頃は山の中で稀に異獣が見かけられることもあったが、一人でも連れがいると全く姿を見せなかったらしい。
その他の地方の異獣
北越雪譜の異獣の項目では、北越以外にいたとされる似たような獣も「異獣」として紹介されている。
上越の異獣
高田藩の藩士が語った話である。
黒姫山(新潟県糸魚川市の山)に小屋を作り休んでいた時のこと。
夜中に猿に似ているが猿ではない者が勝手に小屋の中に入り焚火にあたりに来た。
この異獣は髪が赤く、毛が抜けたような灰色の体をしており、腰より下には枯草をまとっていた。
こちらも人間に害をなす様子はなく、人の言うことをよく聞いた。
後には人にもよく慣れたという。
飛騨・美濃の異獣
異獣の項目の最後で著者の鈴木牧之は
「和漢三才図会の寓類の部を読むと、飛騨美濃や西国の深山にもこのような異獣がいるという」
「それならどこの深山にも(異獣は)いるのだろう」
と書いている。
「和漢三才図会」とは江戸時代中期の百科事典。
寓類の部では「黒坊(くろんぼう)」という心を読む猿のような妖怪が「飛騨美濃の深山に棲む」と書かれている。
この「黒坊」はあの有名な妖怪「覚(サトリ)」の別名である。
西国の異獣
前述のように異獣は「西国」にもいるとされているがこの言葉が指す範囲は広いため、正確にはどこのあたりのことなのかは特定が困難である。
しかし和漢三才図会の寓類の部には、北越や飛騨・美濃より西に位置する九州の深山に「山童」という妖怪がいると書かれている。
この山童については「食べ物を与えると木こりの仕事を手伝ってくれる」と記載されており、異獣との共通点が見られるため山童が西国の深山の異獣である可能性は充分にある。
現代の異獣
青木酒造が販売している純米酒「雪男」は異獣の第一の目撃談にちなんで作られた酒である。
ラベルにも北越雪譜の挿絵「山中異獣の図」の荷物を背負った異獣をシルエット風にしたものが使われている。
また、鳥取県境港市の「水木しげるロード」には異獣のブロンズ像が設置されている。
こちらのデザインはは水木しげる氏の絵柄に合わせたもので、少し犬っぽくなっている。
外部リンク
京山人百樹刪定 岡田武松校訂 北越雪譜 北越雪譜二編 鈴木牧之編撰(青空文庫)