氷川丸
ひかわまる
経歴
1929年9月30日、日本郵船の発注により建造され横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で進水。翌1930年5月より北太平洋航路(処女航海は横浜港~シアトル港間)に就役した。当時、世界的な喜劇王であったチャップリンなどが乗船している。
1941年10月、北太平洋航路閉鎖に伴い交換船として徴用。日米両国の在留民をそれぞれの母国へ送り返す。
同年12月に太平洋戦争が始まると、大日本帝国海軍に徴用され病院船として使われることとなった。
戦中3度機雷によって損傷したり、1945年には舞鶴港、横須賀港でそれぞれ空襲を受けているが難を逃れ、海軍に徴用された排水量1万トン以上の大型民間船としては終戦まで生き残った唯一の船となった。終戦まで生き残った外航大型客船は、他に陸軍に徴用された南洋海運の日昌丸だけである。
病院船として徴用された後も、所属は日本郵船のままで、同社の乗組員は乗船した軍人・軍属に客船時代と変わらぬ最高のサービスを提供しつづけたという。戦局の悪化とともに食糧事情が悪化する中、氷川丸ではかなり後期まで良質の食事が出されていたようである。その白く美しい船体から乗船した兵士たちからは「白鳥」と呼ばれ親しまれていた。
また、上記通り触雷や空襲を受けながらも沈没しなかったことなどから、戦後は「幸運の船」と呼ばれるようになった。
終戦後は復員船業務に従事し、国内外の貨客航路を経て1953年7月、最初の舞台であった横浜~シアトル航路の商船として復帰を果たした。
老朽化と飛行機の発達により1960年をもって同航路の運航が取りやめられると、同年12月21日に除籍され、31年余りの現役生活に幕を下ろした。
その後はプロペラシャフトを撤去されたうえで、生まれ故郷であり現役時の拠点でもあった横浜港の山下公園に係留され、宿泊施設やイベント施設として活用された。
長年の海上での係留により船体の痛みが進み、氷川丸を訪れる観光客の減少が進んだ事もあり2006年、運営会社の氷川丸マリンタワー株式会社は解散、元の持ち主である日本郵船に返還された。
現在は、日本郵船歴史博物館の附属施設として公開中。2016年には、戦前からの残存船としての価値を評価され、海上で保存されている船としては初めて、国の重要文化財に指定された(船舶が重要文化財に指定されるのは明治丸に次いで2隻目。官報告示を経て正式の指定となる)。
余談
また、「第二次世界大戦時に海軍に運用されていた船(艦艇や特務艦艇としてではなく徴用された病院船としてだが)」である以上「あのゲームにも登場する可能性はゼロではないのでは?」という声もあるらしい。
既にファンによって非公式のイメージイラストも描かれている。
なお日本郵船にとっては当然のことながら、多くの船が徴用(乗組員ごと海軍に強制的に動員)され、商船としての活躍の場を奪われ沈んでいった太平洋戦争は大変な受難であり、氷川丸の展示からは、海軍軍人以上の犠牲を出したとされる商船乗組員の海軍への恨みが伺える(海上保安庁の記事も参照のこと)。
ちなみに、海軍艦船のうち現在まで保存されているのは砕氷艦「宗谷」と、第二次大戦前の軍縮により引退した「三笠」のみであるが、「三笠」は戦後荒廃した経緯から外見以外は原型をとどめておらず、また「宗谷」も南極観測船として大改装を受けているので軍艦としての現役時の名残は少ない。
他に海防艦「志賀」だった巡視船「こじま」が第二次世界大戦に参加した戦闘艦としては唯一平成の代まで保存されていたが、千葉市がコスト上の問題から解体を決定し、惜しまれつつ1998年に解体されている。
嘉納治五郎は1938年、カイロでのIOC総会からの帰路に氷川丸に乗船し、日本到着の二日前に船内で死去した(看取った平沢和重は後年の東京大会誘致で語っている)。この経緯はいだてんに詳しく、また同作では複数回氷川丸で撮影を行っている。