ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

佐々成政の編集履歴

2011-12-22 04:11:07 バージョン

佐々成政

さっさなりまさ

生年不明(後述)~天正16年閏5月14日(1588年7月7日) 戦国時代・安土桃山時代の武将・大名。尾張国春日井郡比良城(現在の愛知県名古屋市西区)出身。父は佐々成宗(名前は『盛政』ともいわれる)。通称・内蔵助(くらのすけ)。

概要

佐々氏は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏の嫡流である六角氏の庶流(鎌倉時代後期の武将・六角泰綱の末子である佐々頼起、応仁の乱で主家に背いて戦死した六角政堯の子・佐々成義から始まる説等)といわれるが不明。但し軍旗には佐々木氏一族の定紋である「四つ目結び」を使用していたという。


尾張国春日井郡比良城に拠点を置く土豪・佐々成宗の三男として誕生。二人の兄(佐々政次、佐々孫介)の相次ぐ戦死により永禄3(1560)年に家督を継ぎ、比良城主となる。織田信長に仕え、馬廻り(大名の護衛)を経て精鋭部隊黒母衣衆の筆頭に抜擢され、戦功をあげた。その後、柴田勝家率いる北陸方面軍に従軍し、越前府中に領地を与えられる。同じように領地を与えられた前田利家や不破光治と合わせて「府中三人衆」と呼ばれた。

天正10(1582)年の魚津城の戦いで、織田家が対上杉家の最前線である越中平定に成功すると、越中一国を与えられ、完全に越中を支配下に置いたまさに次の日、本能寺の変が起きてしまう。上杉家の反撃への対応に追われた成政は動く事が出来ず、豊臣秀吉に先を越されてしまう。

その後に起きた信長の跡目争い(清洲会議)では勝家側につき、勝家の敗死後は徳川家康に与して秀吉に抵抗、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは当初は秀吉側に付く素振りを見せたものの、後に家康側に付き、秀吉側の前田利家と激しく争った(末森城の戦い)。しかし家康が秀吉と講和してしまうと立場が悪化、家康に再び決起してもらうために厳冬の北アルプスを越えて(さらさら越え)直談判にいくが失敗。織田信雄滝川一益にも交渉するが色よい返事はもらえず、結局翌天正15(1585)年に秀吉自ら挙兵して越中に侵攻して来た(富山の役)際、幾許か抵抗をした後、援軍が来ない事を悟り織田信雄の仲介で降伏する。結果として助命されたものの越中・新川郡を除く、領地の大半を没収された。

その後しばらく妻子とともに大坂に移り御伽衆(よく言えば執事、悪く言えばパシリ)として秀吉に仕える。九州征伐に功があり、肥後一国を与えられて再び国主に返り咲く。そして着任早々太閤検地を実施するが、これに地元の国人が反発。国人の隈部親永を中心に一揆を起こされてしまう。成政は即座に親永の籠る隅府城を攻め落とすが、親永の逃亡先である城村城攻略に手間取っている間に別に兵を挙げられ、逆に苦境に立たされる。結局援軍要請を受けた秀吉の出陣で一揆は年内に鎮圧されるが、成政は謝罪の為に大阪に赴くことになる。しかし謝罪は拒否され、成政は一揆の責任をとらされる形で摂津尼崎の法園寺に幽閉された後、自害させられた。享年は53歳といわれるが、生年が天文5年1月15日(1536年2月6日)の他にも、永正13(1516)年、天文8(1539)年と諸説がある為に不明。


成政の息子(佐々松千代丸。 天正2(1574)年の長島一向一揆討伐において戦死)は夭折しており、婿養子である佐久間勝之も富山の役で成政が降伏した事を機に成政の娘と離縁して復姓した為、成政の系統は断絶した。但し、傍流(成政の実姉)の子孫として、徳川光圀に仕えた佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎のモデルとされる人物)、元内閣安全保障室室長であり、政治評論家の佐々淳行や佐々瑞雄(佐々成政研究会会員。こちらは成政の甥・佐々直勝の子孫にあたる)等がおり、佐々氏の血脈自体は残っている。


人物

羽柴(豊臣)秀吉を嫌っており、同じ母衣衆の前田利家とも仲は悪かったという。また、同じく秀吉嫌いの柴田勝家とも富山城の攻略において大将とは思えぬほどの取り乱しぶりで大喧嘩をやらかしており、必要以上に敵を作るところがあったようだ。このように血気盛んで猪突猛進な武将のイメージが強いが、実際は政治家としての手腕もあり、数年間の越中統治の際に堤防を築き、越中領民の悩みの種である河川の氾濫による水害を防いでいる。その為領民は成政の事を慕い、その堤防は「済民堤」または「佐々堤」と名付けられて現在でもその遺構は残っている。


織田家臣の中での後世の扱いは不遇な方であり(佐久間信盛などよりはだいぶマシだが)フィクションでも出番が少ない。ただ織田家に対して忠義を尽くしてはいるので、愚直で不器用な武人としてそれなりの見せ場を与えられることもある。


天正18年(1590年)の小田原の役で、蒲生氏郷が「三階菅笠」の馬印の使用許可を秀吉に願い出たところ、秀吉は「(「三階菅笠」は武勇高き)佐々成政が使用した馬印。それに相応しい手柄を立てれば使用を許そう」と言い、これを聞いた氏郷は満身創痍となりながらも小田原の役で活躍し、見事馬印の使用を許されたという逸話が残る(『常山紀談』)。勝者である秀吉や前田氏に悪評を創作され、過小評価を受けがちな成政であるが、その秀吉・前田氏にも軍事指揮官としての力量は認められていた模様で、この様に多くの賞賛の記録が残っている。


新規の家臣を召抱える際、最初に提示した禄高よりも多くの知行を仕官後に与えた事から、「気前の良い殿様だ」という事で仕官を望む者が絶えなかったという。また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく、「いかに過去、武功を挙げたか」という部分を重視して、その話を聞くのが大好きであったとされる。


戦国大戦

\いぎを もうしたてる!/

CV:小野大輔

成政が戻ってきたぞ、安心せよ!!」(復活時)

この成政が~っ!!」(撤退時)

ふっ、楽勝だな!!」(開幕時及び計略発動時)

さあ、ここからは俺の時間だ!!」(虎口攻め発生)

ふっ、楽勝すぎて欠伸が出るわ!!」(虎口攻め成功)

織田を支える若き才……、それがこの成政よ!!」(カード裏台詞および落城勝利時)


pixiv上のイラストは大半が戦国大戦のものだが、本作では上記に掲載している、相当な自己主張かつインパクトのある台詞を喋る、自信家でナルシストなキャラクターとなっている。

スペックは、コスト2 武力7/統率7の鉄砲隊。

特技こそないがスペックに関しては優秀で、「母衣衆の采配」という計略を持つ、使い勝手の良い武将として人気がある。

計略の内容は「織田家」の味方の武力を引き上げ、かつ敵のダメージ計略や妨害計略、罠計略の対象にならなくなるというもので、主にダメージ、妨害系統の計略をメインに据えたデッキに対して、無類の強さを発揮する。また、「敵と味方の部隊数の差」や「敵の武力値」によって効果が出る計略(甘粕景持の「龍の如く」、鬼小島弥太郎の「鬼に金棒」等)にも抜群の効果があり、いずれも相手側の部隊全てが「母衣衆の采配」が発動中の状態でそれらの計略を使うと、問答無用で武力上昇値が1となる。


只、あくまで効果の対象となるのは味方の武将が「織田家」に属している者のみという事と、武力上昇値が2とそれほど高くない為、メインとして据え置く事は難しく、使い所が限られるのが欠点。しかし巧みに使えば裏の手、もしくはコンボ要因として十分に実力が発揮する事が出来る武将と言える。


関連タグ

織田信長 豊臣秀吉 前田利家 柴田勝家 戦国大戦

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました