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飯富虎昌の編集履歴

2021-08-27 22:31:40 バージョン

飯富虎昌

おぶとらまさ

甲斐・武田氏に仕えた戦国武将。 信虎、信玄の二代に渡って武田を支えた古参。 武田の切り札である最強騎馬軍団「赤備え」の創始者で、『甲山の猛虎』と呼ばれた猛将。 弟に山県昌景がおり、彼の育てた騎馬軍団を継承することになる。

飯富虎昌とは、実在の戦国武将の一人である。


解説

生没1504(永正元年)?~1565年(永禄八年)
出身甲斐国
主君武田信虎武田信玄
別名「甲山の猛虎」
親族山県昌景(弟、もしく甥)、飯富道悦(父)

人物像

信虎・信玄の二代に渡って仕えた武田氏の重臣。

山県昌景(もしく伯父)でもある。

河内源氏四代目棟梁・源義忠(源義家の四男、源義親の弟)の子である飯富忠宗の血縁とされている。

「虎昌」の名は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には存在するが、彼が誼を結んだ信玄の嫡子・武田義信の側近が記した『二宮祭礼帳(にぐうさいれいちょう)』には無く、本名か否かには検討の余地を残している。

また生年についても、諸説あってはっきりしない。


26歳(1531年)の頃に今井信元らとともに信虎に謀反を起こすも鎮圧され、それ以来は大人しく従臣している。五年後の1546年に北条氏の征西に今川方の援軍として参戦し、北条軍を大いに打ち破って勝利に貢献した。

二年後の諏訪・村上両氏の連合軍との合戦では、寡兵で数の有利を覆し、自らも97の首級を挙げるという破格の功績を見せている。

その後、1541年に板垣信方甘利虎泰らとともに信虎の嫡男・晴信を擁立し、信虎を駿河に追放。以後は宿老として晴信を支え、1547年の「上田原の戦い」で先の二人が戦死した後は、武田臣下の中核を担い、川中島の戦い以後は晴信の嫡男・義信の後見人に抜擢されている。


しかし、今川氏との外交を巡る父子の確執から、義信を担いで謀反を画策したとされ、その責任を問って自害させられた。これを訴えたのは彼の甥であったと、『甲陽軍艦』では語られている。

なお、現在ではこれは「今川氏との条約を反故にしたかった信玄が、親今川派の義信や虎昌にあらぬ罪を着せた物である」と言うのが定説。駿河侵攻によって周囲に味方を亡くしたことは、信玄の死後に武田家が滅亡した最大の原因とも言われているため、彼の死は武田滅亡の第一歩であったとも言えるだろう。


上述にあるように、凄まじい戦闘力と卓越した合戦術から「甲山の猛虎(かぶとやまのもうこ)」と称され、敵味方から畏怖される武烈を有した。

また武田が誇る戦国最強の騎馬軍団赤備えの創始者ともされ、彼亡き後は弟(もしく甥)である昌景が継承し、さらに武田氏崩壊後は井伊直政「井伊の赤備え」として継承していった。


関連タグ

戦国武将

武田信虎 武田信玄

山県昌景 赤備え

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