生没年 1127(大治2)年~1157(保元2)年
正室が熱田神宮の大宮司・藤原季範の養女であり、実の娘を娶った源義朝とは相婿の関係に当たる。
生涯
父の所領である下野・足利荘を相続したことから足利を名字とした。
1142(康安元)年に鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進したことで足利荘の現地管理者である下司となる。
鳥羽上皇の後ろ盾を得た義康は西面武士として都での立身出世を果たし、検非違使や蔵人に任官した。
1156(保元元)年に発生した保元の乱では後白河天皇側につき、平清盛(300騎)や源義朝(200騎)に次ぐ100騎の兵を率いて戦った。
戦後に褒賞として従五位下に叙位されるも、翌年に死去した。
死後
嫡男(三男)の義兼が幼かったため、庶長子の義清が朝廷に仕えたが、源頼政の乱に参加して敗走した後に源義仲に仕え、1183(寿永2)年に水島の戦いで敗死した。
一方成長した義兼は源頼朝の挙兵に参加、功績を積んだことで上総国司や源氏一門の上級御家人である御門葉の一人となり、他の御門葉の一族が粛清・没落していく中でも義兼の系統は有力御家人として生き残り、室町時代に足利尊氏が室町幕府を開く原点となった。
ただ室町幕府の滅亡と足利氏の没落の後、江戸時代に小倉や熊本を治める大大名となり、平成時代には総理大臣を輩出した細川家が義清の子孫であるのは歴史の皮肉というほかない。