概要
1917年11月14日、朝鮮半島南部・慶尚北道上毛洞(現:亀尾市)の貧しい農家に生まれ、教師を経由して満州国の士官学校に入り満州国軍人となる。戦時中は満州国軍人の身分のまま東京の陸軍士官学校に留学した。当時は「高木正雄」の日本名を名乗った。
第二次世界大戦末期に満州へ戻り、終戦で満州国崩壊後は、アメリカ軍政庁が設置した警備士官学校に入り軍人となったが、一方で共産党に通じており逮捕されるが南朝鮮労働党の内部情報を提供して釈放される。
1961年5月16日に陸軍少将となっていた彼は軍事クーデタを起こし政権を奪取、軍事独裁政権をうち建てる。
1963年には大統領に就任し、これより1972年の憲法改正を経て暗殺までの1979年までを「維新体制」や「第三・第四共和国体制」と呼ばれる独裁政治の時代を迎えた。岸信介・児玉誉士夫らの関係をてこに日韓両国の反対を押し切って日韓基本条約を締結、植民地時代の補償を名目に日本から巨額の資金援助を引き出す。ベトナム戦争にも派兵し、アメリカからの援助を引き出した。韓国は日米両国の支援を原資に「漢江の奇跡」とよばれる経済発展を成し遂げる。
なお、ベトナム戦争で韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われ、後にこのことが国際問題化する。韓国内でも苛烈な反対派への弾圧を行い、多数の者が拷問で命を落とした。特に中央情報部 (KCIA)が、朴の政敵の金大中を東京で拉致・監禁した事件(金大中事件。日本側が察知したことにより金大中はソウルで解放された)は日本でも大きく取り上げられた。
金大中に関しては1971年の大統領選挙に立候補した際、朴圧倒的な情勢ながら95万票差の次点につけ、金大中の地盤である全羅地方だけなく首都ソウルとその近郊の京畿道で得票数が朴を上回っていた事でその存在を警戒されており、選挙直後には金大中の乗る車にトラックが衝突し側近ら3名が負傷、自身も腰と股関節に障害を負わされるという暗殺未遂事件が起きている。
1974年に北朝鮮の工作員であった在日韓国人に命を狙われ(文世光事件)、妻の陸英修が死亡する。この時朴は、日本が中華人民共和国との関係を深めていた事や事件に使用された拳銃が大阪市内の交番から盗まれたものであった事によって不信感も重なり、日本に対する怒りに燃えていたという。
しかし1979年10月26日、宴席において朴は側近であるKCIA(韓国中央情報局)部長・金載圭に対し、もうひとりの側近であった政権ナンバー2の大統領府警護室長・車智澈とともに釜山及び馬山で起きた暴動(釜馬暴動)の処理を巡る件で叱責する(朴は暴動に対し、軍の投入も辞さないなど強硬であり、その考えに同調する車を重用するなど、金は日頃から叱責されていた)。叱責を受けた金は中座後、外で待たせていた部下二人に朴の暗殺決行を行うことを告げ、銃声がしたら入り口を警護する車の部下を始末するように告げた。そして、席に戻ったあと、金は
「閣下、こんな虫けらのような奴を連れて、政治がちゃんとできますか?」
と一言述べたのち、まず拳銃を車に向けて発砲、車はを腕を撃たれ、この時点ではまだ生存していた。金の蛮行に朴は「何をしている!」と叫ぶも、金は続いて朴に対し発砲、朴は胸を撃たれ卒倒。金は追い討ちで頭を撃ち抜くところで拳銃が故障、外にいた部下から拳銃を借りるべくいったん外へ出、拳銃を借りて戻ったところで最初に撃った車が大統領を置いて逃亡しようとするところで彼を射殺し、さらには倒れていた朴の頭を撃ち抜いたのだった。享年61。後にこの事件は発生日より『10.26事件』とも呼ばれる。朴を射殺した金載圭とその部下はその後軍によって逮捕され、間もなく処刑された。
この経緯については2016年の娘朴槿恵と崔順実の関係にまつわるスキャンダルが浮上した際、崔順実の父親である崔太敏と朴槿恵の親密な関係に関し、崔を遠ざけるよう進言したところ朴正煕は崔を擁護する立場をとり、金に対し家族の関係に口を挟むなと叱責され聞き入れられなかった事で恨みを抱いたという金の法廷での主張が取り上げられた。
この暗殺事件には秘密裏に研究が進められていた核開発疑惑や強権的な姿勢に対し批判的なアメリカによる朴排除の意向があったという説も存在している。
彼の死後、大統領は崔圭夏を経て朴の子飼いかつ、前述の暗殺事件の解決に全力を注いだ全斗煥へと移ることになった。
死後、彼の出身地である慶尚北道亀尾市には生家と偉業を称える記念館が建てられている。