概要
武装親衛隊に所属した師団のひとつ。ドイツ人のみで編成された武装SS師団としては最後のもので、青少年団体「ヒトラーユーゲント」から選抜された青年を中心に、第1SS装甲師団LSSAHからマックス・ヴェンシュ中佐(第12SS装甲連隊長)、クルト・マイヤー大佐(第25SS装甲擲弾兵連隊長)などの士官、そして国防軍から出向してきた士官が派遣され、強制徴募により集められた多数の未成年の少年たちから構成されたため、下級兵士の大半が16歳以上の未成年であったが、ノルマンディーの戦闘に参加した装甲師団では第2装甲師団、第130教導装甲師団と共に44年型装甲師団の戦車定数を当初満たしていた数少ないドイツ装甲師団であった。
未成年の兵士が大半だったので、煙草の代わりに戦時には貴重品であるチョコレートやキャンディーなどが支給された。
WW2末期である1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦に伴うフランスでの戦闘で初陣を遂げ、その後はバルジの戦い、春の目覚め作戦などに参加。
連合軍は、子どもと言っても良い年齢の兵士ばかりのこの部隊を二線級の部隊と軽く見ていたが、ひたすら実戦的訓練を積まされ、経験豊富な将校・下士官に率いられた師団はノルマンディーの戦闘で予想をはるかに上回る勇猛ぶりを発揮してカーン防衛戦、トータライズ作戦での防御線などで活躍した一方、多くの犠牲が生み、特にカーン前面でのカナダ第3歩兵師団とは互いに相手が捕虜となる事を認めない容赦ない戦闘を繰り広げた。
ノルマンディーの戦闘では師団長フリッツ・ヴィット少将が艦砲射撃で戦死し、ファレーズの包囲網からの脱出では第12装甲連隊長ヴェンシュ中佐が捕虜となるなか、ヴィット少将の後任となった師団長クルト・マイヤー少将に率いられた1500名がなんとか脱出した師団は、戦力回復を図るも実戦にはまだ及ばないと指摘される中で投入されたバルジの戦いでは多大な損失を受けて突破に失敗して撃退されるなど、ノルマンディーでの戦闘後は活躍は精彩を欠いたものとなり、1945年5月8日、オーストリアのリンツで殆どの兵がアメリカ軍に降伏した。
師団章は、第1SS装甲師団の師団章にルーン文字の「S」を重ねたもの。