生年 1931年1月3日~
概要
愛知県名古屋市出身の日本の政治家。内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、自由民主党総裁(第14代)、自由改革連合代表、新進党党首などを歴任した。
中央大学卒業後に法務省に入省するが、わずか1年で地元選出の衆議院議員秘書となった。また、同時に早稲田大学で法学の勉強を極め大学院にも進学したが、途中で退学してしまった。大学院中退後、秘書をしていた議員の急死に伴い衆議院議員総選挙に出馬し、1960年に若干29歳で衆議院議員として初当選した。当選後は後に総理大臣を務める三木武夫の派閥に属し、三木が田中角栄との政争に敗れ党内での権力が失墜しても、三木自身が他界し派閥の長が変わり河本派となってもずっと三木派に属し続けた。
1989年、リクルート事件を発端とする政治不信を拭い去るため、弱小派閥に所属し比較的若年にも関わらず、そのクリーンなイメージから竹下派などの大派閥の後押しを受けて総理大臣になった。総理就任後は日本初の女性官房長官の登用や夫婦揃っての行事参加など、当時では珍しい女性を前面に出した政治活動により女性層の支持を集め、1990年の衆議院総選挙では苦境の時代であった自民党を大勝に導いた。しかし、政策面では大派閥の後押しを受けて担ぎ上げられた身である以上その大派閥の意向に頼らざるをえない状況となり、当時の有力議員であった竹下登、金丸信に事あるごとにお伺いを立てていたと言われている。だが、本人のクリーンなイメージによる国民受けの良さとバックの大物達の後ろ盾のお陰で政権は安定し、在任中の約2年半の間、衆議院では内閣不信任案すら出されなかった。この衆議院での不信任案採決が行われなかった期間は、現憲法下における最長記録となっている。
1991年、自身が目玉政策として進めた政治改革関連法案が審議未了で廃案になった際、解散総選挙を思わせる発言をしたため党内の支持層が一気に反旗を翻し、次期総裁選での当選が絶望的になったため総辞職した。ただ、後に海部本人は発言が改ざんされて伝わったと述べており、党内の誰かが意図的に海部を総辞職に陥れたとも言われている。
総辞職後は、1994年に当時の自民党総裁河野洋平が左派系の社会党党首村山富市を首班とする連立内閣を組もうとした事に反発し離党したが、その後復党して自民党の重鎮議員として国政の世界に身を置いていた。しかし、知名度の低下や比例区への重複立候補などの予防線を個人的な信条から行わなかったため2009年の総選挙で落選してしまい、そのまま政界を引退した。総理経験者の落選は約半世紀ぶりの珍事であり、当時マスコミでも報道された。