概要
歩兵第41連隊の隊長、第3師団の参謀長、ハルピン特務機関(関東軍情報部)の機関長、第9師団師団長など、多くの役職を歴任し、最後は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官を務めた。最終階級は中将。
ユダヤ人救済
彼を語る上で欠かせないのが、第二次世界大戦前後の時代におけるユダヤ人に対する救済処置である。
当時、アドルフ・ヒトラーが率いたナチスドイツが進めれいたユダヤ人弾圧政策において、迫害下から逃れるためにユダヤ人がソ連から満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで避難した出来事があった(オトポール事件)。
しかし、亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国許可を渋ったために足止めをくらい、惨状を見かねた日本陸軍の樋口季一郎将軍は、直属の部下であった河村愛三少佐らとともにユダヤ人たちに対し、即日給食と衣類・燃料を配給・要救護者への加療を実施し、更に膠着状態にあった出国斡旋・満州国内への入植斡旋・上海租界への移動の斡旋などを行った。
この樋口将軍の行為にオットー駐日ドイツ大使(当時)が「ドイツ国家と総統の理想に対する妨害行為だ。日独国交に及ぼす影響少なからん。」と日本政府に抗議した。それにより日本軍、関東軍の中でも樋口に批判が沸いた。
しかし樋口は関東軍司令官である植田に
「 小官は小官のとった行為を、けっして間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない筈である。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」という書簡を送った。
この書簡がまた火種を呼び、ついに当時の満洲国関東軍参謀長である東條英機将軍が樋口に出頭命令を下す。
そこでも樋口は次のように語った。
「ドイツのユダヤ人迫害という国策は、人道上の敵であり、日本満州の両国がこれに協力すれば人倫の道に外れることになります。ヒトラーのお先棒をかついで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか」
彼の話に納得した東条は「当然なる人道上の配慮により行なったものである」としてドイツの抗議を一蹴し、樋口を不問とした。
その後、樋口は参謀本部第二部長に栄転し、事態は沈静化した。
余談だがこの出来事は、多くのユダヤ人を救い『日本のシンドラー』と呼ばれた有名な外交官である杉原千畝外交官の『命のビザ』の逸話より2年前のことである。
キスカ島撤退作戦
キスカ島から軍用犬二匹を残して撤退。上陸した米軍は日本軍がすでに撤退済みであることに気づかず、疑心暗鬼の末に同士討ちする。
この上陸作戦であるコテージ作戦は史上最悪の軍事訓練と揶揄された。
占守島防衛作戦
8月15日以降、武装解除を命じられていたが独断でソ連軍と戦闘。
北方領土まで奪われるが、米軍の北海道占領が間に合い防衛に成功。
北海道がソ連に占領されることを防いだ。
もし戦っていなければ今頃北海道は朝鮮半島のようになっていてもおかしくはなかっただろう。
現に東北地方まで占領する計画があったのだから。
戦後はスターリン直々に名指しで戦犯指定されるが、彼に救われたユダヤ人たちの猛抗議の末に、結局引き渡しをマッカーサーに拒否された
同じく日本人でありながら国の命令に背いてユダヤ人を救った外交官杉原千畝と比べて知名度が低いのは、外交官か軍人であったかの違いであろう。
ユダヤ人を救い、窮地の同胞を救い、分断の危機から日本を救ったまさに救国の英雄とも言える人物である。