15世紀の中世ヨーロッパで作られ、ドイツで発展した初期の鉄砲。
マッチロック式銃に分類され、フリントロック式の前身である。初期のマスケット銃も構造は火縄銃と同じだった。
S型金具のサーペンタインロック式が用いられ、バネ仕掛けに火縄を挟んで固定し、引き金を引くと火縄は火皿を叩く。火皿には黒色火薬が入っており、叩かれて点火すると連動して銃身内の火薬へ誘爆し、弾丸を発射する。火縄銃にも瞬発式と緩発式と方式に違いがあり、日本では前者、欧米や中東では後者が主だった。
それまでの銃火器と比べれば命中率の精度は向上したが、やはりまだ集団戦法が必要だった。黒色火薬を用いてはいたが、近距離での殺傷力は現代の散弾銃を上回る。貫通力も決して低くなく、至近距離では鉄板製の当世具足(対火縄銃用に作られた鎧の一種)を打ち抜くことができた。
日本には16世紀半ばの戦国時代に鹿児島の種子島に伝来したのが最初といわれ、瞬く間に量産体制と専門職人が整い、国内生産された火縄銃を戦国武将達はこぞって合戦に使用した。
明智光秀や滝川一益は射撃に通じ、いち早く注目した織田信長や雑賀孫市は鉄砲隊を組織。騎馬軍団率いる武田勝頼との長篠の戦いで織田軍勢の鉄砲隊は威力を発揮した。16世紀のヨーロッパではすでに旧式銃となっていたが、当時の世界では大量生産数世界一となり、しかも技術的にも改良され、欧州の火縄銃よりも高い性能を誇った。
その一方で、銃の導入を躊躇う武将も多々いた。装填に時間がかかり、火薬は湿気ると使えず、日本にない火薬の原料の硝石は輸入しなければならない(後国産化に成功)など、弱点が多かった。信長が三班制の陣形で装填時間を短縮したと言われるが、疑問視もされている。
天下泰平の江戸時代にも、火縄銃は使われ続けたが規制は厳しく庶民は手にできなかった。幕府と各藩が厳重管理し、一般では狩人くらいしか使用しなかった。この間、新式のマスケット銃も知られていたが、命中率の低さから、一発必中を好む武士には好まれず、普及しなかった。
幕末になると最新鋭のライフルが導入され、あまり活躍を見せなかった。太平洋戦争末期には物資不足と本土決戦に備え火縄銃の生産も検討されていた。
現代では銃刀法のもとに管理され、競技として愛好されている。火縄銃は江戸時代に製作されたものが最も良質で性能が高いため、海外の選手も日本製の火縄銃を使っている。