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新垣渚の編集履歴2022/07/19 22:34:20 版
編集者:MA-CHA
編集内容:夫人について追記

概要

所属
出身沖縄県那覇市
生年月日1980年5月9日
身長・体重190cm、83kg
投球・打撃右投右打
守備位置投手
プロ入り2002年自由獲得枠

沖縄県出身。沖縄水産時代に甲子園に出場、151km/hをマーク。ドラフトではオリックス・ブルーウェーブに1位指名されるが拒否。この時新垣は「ダイエー以外なら進学」と決めており、オリックススカウトの三輪田勝利氏を門前払いしていた。球団と新垣の板挟みにあった三輪田はその後自殺。それでも新垣は入団拒否を徹底的に貫いて九州共立大学へ進学している。九州共立大では大学球界を代表する右腕として活躍。2002年ドラフトで満を持して福岡ダイエーに入団している。

プロ入り後

プロ入り後は新人ながら先発ローテーションに定着し8勝をマーク。以降ホークスの先発ローテーションの一角として活躍を見せ、2004年には最多奪三振のタイトルをマークしている。2006年までの4年間では42勝をマークしている。

しかし2007年に突如制球力が悪化。25暴投をマークし当時の王貞治監督などからは暴投王と呼ばれるうえ、そのあまりの多さから2ちゃんねるならびになんJでは暴投=ARAKAKIの図式が定着してしまった。翌2008年も相変わらずで、8月20日の埼玉西武ライオンズ戦では1イニング3暴投、1試合5暴投を記録してしまう。

2009年はわずか4試合の登板に終わる。2010年から2011年にかけては肩と腰の故障で丸2年間一軍登板なしに終わった。2012年は晴れて復活。4月1日のオリックス・バファローズ戦では1273日ぶりの勝利を無四球完投で飾った。

2014年シーズン途中に山中浩史とともに東京ヤクルトスワローズ川島慶三日高亮とのトレードでヤクルトに移籍した。1軍の試合に先発2試合、中継ぎ1試合に登板。暴投=ARAKAKIのイメージが強かったからなのか、8月16日の中日ドラゴンズ戦で暴投し、1試合4暴投以上をセ・パ両リーグで記録したのと、3度記録したのがそれぞれ史上初となった。その後も先発の柱として活躍したものの、目立った成績は残せず、2016年オフに戦力外通告を受け現役引退。引退後は古巣福岡ソフトバンクホークスの球団職員として活躍している。

なお、夫人の実姉は元同僚の杉内俊哉夫人ということで義兄弟の間柄となっている。

新垣渚の編集履歴2022/07/19 22:34:20 版
編集者:MA-CHA
編集内容:夫人について追記
新垣渚の編集履歴2022/07/19 22:34:20 版