もしかして
概要
江戸幕府が急速に力を失い薩長両藩との対立が強まるなか、将軍・徳川慶喜はフランスの軍事支援を受けることでまきかえす一方、イギリスを後ろ楯とする薩長両藩は朝廷を追われた公家・岩倉具視と共謀、武力討幕へと動きを強めていた。
その動きを察知した坂本龍馬は土佐藩参政・後藤象二郎に大政奉還の案を伝え、後藤がその案を土佐前藩主・山内容堂に進言。容堂が慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
討幕派による武力討幕の危機に晒されていた幕府にとっては渡りに船の提言であり、慶応3年(1867年)10月14日、京の都にある諸大名を二条城に集め「大政奉還」を宣言した。
しかし、朝廷に政治・外交に通じた人材がいないことから、慶喜はいずれ政権は幕府に帰ってくると考えたうえで各国公使を呼び、「大政を朝廷に返しはしたが、諸国との外交交渉は今後もわれら(幕府)が行う」と宣言した。
一方、「大政奉還」を演出した坂本龍馬はそれから1ヶ月後の、慶応3年(1867年)11月15日、刺客に襲われて落命、幕府見廻組や新選組が犯人であるとの説とともに武力討幕を主張する薩摩藩・西郷隆盛が黒幕ではないかとの説も提起されている。
しかし、当の慶喜は龍馬の大政奉還を秀逸な意見として認めており、新選組には内密に龍馬を護衛するよう命を与えていたとする説もある。
この後、小御所で有力公家と有力諸侯を集めて会議が開かれたが、そこに慶喜の姿はなく、政治の場からも幕府を外すことが明らかになった。
慶応4年(1868年)1月3日、薩摩・長州を中心とする討幕軍と旧幕府軍が鳥羽・伏見で戦い、数で劣る討幕軍は「錦の御旗」を押し立てたことで官軍であることを示し、旧幕府軍を圧倒、旧幕府軍は賊軍であり、慶喜を朝敵であることを天下に知らしめた(鳥羽・伏見の戦い)。
この結果、慶喜は江戸に逃亡、後事を勝海舟にゆだねて上野の寛永寺に謹慎、旧新選組を「甲州鎮撫隊」と改称させたのち江戸から追放、新選組の後ろ楯として京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保、京都所司代を務めていた桑名藩主・松平定敬も同様に江戸から立ち去ることを命令、会津・桑名両藩は朝敵として官軍の追討を受けることとなった。