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菅原道真の編集履歴

2012-05-30 20:58:08 バージョン

菅原道真

すがわらみちざね

平安時代の政治家・学者。現在では「天神様」として知られ、学問の神として信仰されている。神号 天満大自在天神 略 天神様 雷神・祟り神

生涯

平安時代貴族学者政治家歌人としても名を残している。

承和12年6月25日(845年8月1日)、大和国奈良で生まれる。これは現在の奈良県奈良市菅原町と言われるが、他にも出生地については平安京すなわち京都だけで3ヶ所も伝えられており、出雲国説(現在の島根県)や近江国説(現在の滋賀県)まであるため、本当のところは分かっていない状態である。


菅原氏は元々学者の家柄であったが、道真は特に優秀で、幼少の頃から詩歌の才に恵まれた。貞観6(862)年に18歳で文章生となって以降、異様な速度で文人としての頭角を現し始める。その速さに、貞観12(870)年に官吏の登用試験に好成績で合格した際、規定なら3階位進めるべきところを、年齢と身分が不釣り合いになると2階位のみに留められたほどであった。以後の昇進も速く、仁和2(886)年に文人のトップである文章博士に登りつめている。この際讃岐守にも任じられ、4年間現地へ派遣されて善政を布いた。なおこの間、仁和3(887)年に詔勅の文言を発端とし、関白の藤原基経がストライキを起こす事件が起こった際、宮中の人間が止められずにいたところをうまく調停するなどのできごともあった。


寛平2(890)年に帰京すると、道真は宇多天皇の信任を得ることになる。それまで外戚(皇室の姻族)として権勢を振るって来た藤原氏に珍しく有力者がいないことを機と見て、違う氏族の道真を登用して掣肘をかけたのである。寛平9(897)年に宇多天皇が醍醐天皇に譲位して以降も重用され、最終的に、7年で従五位上から正三位まで行くという猛烈な出世を遂げた。この間の事跡として、遣唐使の廃止がある。寛平6(894)年に遣唐大使に任命された際、唐の衰退が著しいことから中止を建言、その後唐が滅びたことで、結果的に遣唐使自体を廃止させることになったものである。


昌泰2(899)年には右大臣に昇進、ついに朝廷のトップ近くまで登りつめた。しかしこの頃になると、藤原氏の反発がどんどん強まったほか、下級貴族にも政策に不安を感じてそれに追随する者が多く、次第に政敵が増加。それを知った同じ学者でライバルの三善清行が、そろそろ政界を退いた方がよいと忠告をしたが、確執もあり無視されてしまう。


そしてついに従二位に上った延喜元(901)年、藤原氏の怒りが爆発、左大臣・藤原時平により醍醐天皇に天皇を譲位させようとしていると讒言されてしまう。これにより、道真は罪人として道真は大宰府に大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷され、子供達も配流された。


よく勘違いされているが、この大宰権帥自体は、平安末期まで実質的な大宰府のトップで、貴族の憧れの官職であった。しかし道真の場合は「大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)」と呼ばれるもので、名前だけの高級官人左遷用ポストとして使われたものであった。このため大宰府の人員のうちにも数えられないばかりか、大宰府本庁にも入れてもらえず、ずっと南のぼろ屋で侘び暮らしを強いられていた。「都府楼(大宰府本庁)はわずかに瓦が見えるばかり、観世音寺(大宰府に附属する寺)はただ鐘の音が聞こえるだけ」と漢詩に詠んだのも、遠くに追いやられていたためである。


配流2年後の延喜3年2月25日(903年3月26日)、そのまま京に帰ることなく、失意のうちに当地で没す。享年59であった。墓地は現在の太宰府天満宮である。埋葬地を探して牛車に遺体を乗せて運んでいたところ、いきなりこの場所で動かなくなったため、道真の意思であるとして葬ったものと言われている。


死後と神格化

その後、京では天変地異が相次ぐことになる。まず讒言をした張本人の藤原時平が若くして急死し、その後も皇族が相次いで急死する。当時は政争に敗れて非業の死を遂げた人物が「御霊」=怨霊となって祟りをなすという「御霊信仰」が浸透していたため、道真が怨霊となって祟りを成したと恐れた朝廷は、道真の罪を許して右大臣に戻し、正二位を贈った。


しかし異変は止まらず、ついに延長8(930)年、天皇が政務を執る宮殿である清涼殿に落雷が起こり、稲妻が柱を直撃、隣の紫宸殿にも電撃が走った。藤原清貫をはじめとして清涼殿だけで2名死亡、紫宸殿でも5名が死亡する大惨事となった。当時の天皇・平城天皇は被害を免れたものの、このすさまじい光景に衝撃の余り体調を崩し、3ヶ月後に崩御してしまった。


この事件と、死亡した藤原清貫が左遷後の道真の監視役であったことに、ただでさえ怨霊と震えていた朝廷や人々の恐怖は頂点に達した。このため人々により雷神=天神に結びつけられ、「天神様」として神格化の上祀られることとなった。また朝廷でも事件から約60年後に正一位と左大臣とし、さらに太政大臣と次々に贈位して、道真の魂を鎮めることに必死となった。


さらに『将門記』には、道真が八幡神に取り次いで平将門を新皇にさせたという。それほどまでに「道真=怨霊」のイメージは強かった。もっとも、大宰府にいた本人は左遷されたことや藤原氏に対して、恨み辛みを述べてはいなかったという。


その後、御霊信仰が次第に衰退するにつれて、道真の本来の性格の方が重視されて学問の神として信仰されるようになり、現在に至っている。


文芸作品

詩歌・文章に秀でていただけに、和歌・漢詩・漢文ともに極めて多い。著書に自分の作品をまとめた『菅家文草』『菅家後集』がある。


また学者であるため史書のまとめや編纂にも関わり、史書のテキストをそのまま引用して分類した『類聚国史』を編纂している。この中にはかなり散佚してしまった『日本後紀』の文章も数多く引用されており、同書の復元に大きな力を貸している。また日本で編纂された6冊の史書・六国史の最後を飾る『日本三代実録』も編纂したが、完成が左遷直後だったため名前が外されてしまった。


一般的には百人一首の24番に

此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に

が選ばれているのがよく知られている。


関連イラスト

梅と白菊


関連タグ

日本史 平安時代 歴史創作 貴族 天神 怨霊 百人一首

大神伝 怨霊系男子 平将門 崇徳上皇 北野天満宮 太宰府天満宮

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