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南部信直の編集履歴

2023-05-10 11:00:12 バージョン

南部信直

なんぶのぶなお

戦国時代後期から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。南部氏第26代当主。盛岡藩祖とされる。

概要

生没年:1546年~1599年

諱:信直

幼名:亀九郎

通称:九郎、田子九郎


南部氏23代当主・南部政康の次男である石川高信の長男。従兄で24代当主だった[(南部晴政]]の長女を娶り後継者となるが、晴政と対立。晴政・晴継父子の死後、南部氏を継ぎ26代当主となった。


「屋裏の変」で晴政と対立

元服後、田子館に入ったことから田子九郎と称した。

1565年、いとこ(異説有)の南部晴政の長女を娶り養嗣子となるも、晴政に実子・晴継が誕生。これで晴政と信直に亀裂が生じのちに「屋裏の変」と言われるお家騒動になっていく。


1570年(1571年説有)、実父の石川高信が津軽為信に攻められて自害。ただし、この頃は信直と晴政の関係が悪化していたので、信直の実家・石川氏排除で利害が一致した晴政と為信が企てた陰謀という見方もある。


1574年に晴政の娘である妻が早世したため、養嗣子の座を辞退し、田子館に引きこもるものの晴政に不信感を抱いており一切出仕しなくなった。

晴政もまた以前から信直に不信感を抱き刺客を差し向けたりしたので北信愛・南長義・八戸政栄らと連携し、晴政や九戸政実や実親(こちらも晴政の娘婿)と対立する道を選んだ。


家督相続

晴政が参詣中の信直を狙ったり、逆に信直自ら晴政を狙撃するといったことがあったりしたが晴政派と信直派の全面衝突は発生しなかった。やがて晴政が亡くなり、後を継いだ晴継も不慮の死を遂げたため、宗家存続での話し合いが再発。

九戸政実は弟・実親を推したが、北信愛が事前に後継候補の一人・八戸政栄に調略を行った結果、信直が当主になる。


津軽為信との対立、九戸政実との対決

何とか当主になった信直だったが、津軽地方の為信の動きはもはや抑えられず信直に先駆けて為信が豊臣秀吉に謁見したことで為信は大名として正式に認められてしまった。


さらに豊臣政権から南部氏惣領の地位を認められた。しかし、これに憤慨した政実は自ら南部家惣領を自称し縁戚の七戸氏らと共に信直に対して反乱を起こす。

南部家随一の精兵と言われた九戸勢は強く、南長義の孫・南盛義らを討ち取られるなど信直は苦戦する。のち豊臣秀次を大将とする大軍の助力もあり平定。そして政実と実親の兄弟は浅野長政蒲生氏郷の策略もあり降伏を許されず騙し討ちにされ、九戸勢は女子供に至るまで皆殺しにされた。

この時、為信が九戸氏と親しかったことから為信も討つように秀次に進言したとされる。

その後、九戸城を福岡城と改名し三戸から本拠地を福岡に移した。


その後

朝鮮出兵の際は海こそ渡らなかったが九州へと赴いた。

葛西・大崎一揆に九戸の乱の後、秀吉から失った津軽三郡の代わりに新たに和賀・稗貫郡を与えられた。このため所領が南に伸び、三戸や九戸では北に寄り過ぎて本拠地としては不便になった。さらに今度は伊達政宗とも接したこともあり、南部は津軽と伊達に挟まれる格好になった。このため信直は嫡子・利直に伊達対策として不来方の地に築城を命じた。ちなみに不来方城は信直死後に完成し、利直は福岡から移転して本拠地とした。また利直は不来方を「森が岡」と改名し、子・重直の代にはさらに「盛岡」と改められ今日に至っている。


最後は福岡城で死去。最後の最後まで為信との和解は成立せず(どちらもする気はさらさらなかったが)、両家はずっと対立し続け江戸時代後期には「相馬大作事件」が発生する。

最後は「大事にはいたっていない。海藻が食べたい」と言ったがその直後に死去したという。

1599年11月22日の事であった。享年54歳。


南部家は利直が継ぎ27代当主となる。利直は盛岡藩初代藩主となったため信直は盛岡藩祖に数えられるようになり「南部家中興の祖」と言われるようになる。南部家は江戸時代も領地替えもなく続いたものの、幕末の戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦うも降伏。その後、南部藩は陸奥国白石13万石に減転封され廃藩置県を迎えた。


主な親族や家臣


  • 石川高信

実父。津軽を維持できたのは彼のおかげと言われるほど優秀な人物であり高信の兄・南部安信やその息子である晴政を支えた。

しかし、その優秀さから晴政から危険視され最後は津軽為信に攻められ自害。

(これについては異説あり)


  • 石川政信

実弟。石川氏としてはこちらが嫡子で田子を称した信直は庶子だったともされる。高信と同様、為信に攻められ自害したというが異説もあり、果ては実在否定されることすらある始末である。


  • 北信愛

南部氏一族で祖父は南部氏21代目当主・南部信義だが、実父・北致愛が誕生したのが信義が死没した翌日だったため母方の北氏に追いやられた経緯を持つ。


1600年の奥州合戦では水沢城に突如攻めてきた一揆勢を少数ながら撃退する活躍を見せた。

八戸氏の力を恐れた信直・利直はけん制役として重く用いた。享年は91歳と超長寿。ちなみに外甥で養子の北直吉(信景)は信愛死後、利直と不和になり出奔し大坂城に入城して大坂の陣を戦うが捕えられ盛岡まで連行され利直の手で処刑されている。


  • 南長義

石川高信の弟。名は信義とも。晴政・信直の叔父にあたる。北信愛と共に積極的に信直を支持したため、晴政と対立することになった。86歳にして南部晴継死後の相続会議にも参加した。翌年87歳で逝去。


  • 八戸政栄

八戸氏18代当主。根城八戸氏は元々の南部宗家に当たる家柄。ただし政栄は八戸氏庶流の新田(にいだ)行政の息子で八戸勝義の養子として根城八戸氏を継いだ人物である。信直と晴政が険悪な関係になった時に信直を匿ったこともある。一時は当主候補になるも自身が盲目だったことや北信愛の説得で辞退。以降は信直の右腕として働き、嫡子・八戸直栄に信直の長女が嫁いでいる。しかし八戸氏は家柄や実力もあってその後も信直や利直からは警戒もされていた。

  • 中野康実

九戸政実と実親の弟。高水寺斯波氏を滅ぼすのに功があった。しかし九戸の乱の際に兄達と袂を分かち信直に味方。のち中野家は北家や八戸家と同格として重んじられた。


その他、父・高信の弟たちを祖としている石亀氏や毛馬内氏も家臣化した。


関連項目


東北勢 盛岡

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