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冉閔の編集履歴

2023-09-22 11:23:50 バージョン

冉閔

ぜんびん

五胡十六国時代の魏(冉魏)皇帝。

概要

五胡十六国冉魏初代皇帝。この時代きっての暴君だった、石虎の養孫。20万もの人の虐殺を決行(夷狄と決めつけての虐殺だった)。

後に慕容恪に処刑される。




冉閔が後趙の実権を握ったあたりから、中原は戦がない月がないほどだった。後趙が華北を統一していく過程で華北各地の多くの民や、氐、羌、胡、蛮などの周辺民族など数百万の人々がもといた場所から周辺などの後趙の中心エリアに移動させられる。俗に言う「中原大乱」である。


姚弋仲、前燕の援軍によって、冉閔の襄國攻撃を防ぎ、冉閔に大打撃を与えた石祗は、逆に劉顯に7万の兵を率いさせ鄴を攻撃させる。劉顯の軍は、鄴から23里の明光宮に布陣します。冉閔は、マズいと思い王泰を呼んで対応を協議しようとするが、王泰は先の戦いで、冉閔が自分の献策を無視して大敗北をくらっているので激怒しており、仮病を使って会おうとしなかった。これに対し冉閔は逆ギレし、自ら兵を率いて出陣、劉顯を迎え撃つ。劉顯は陽平というところまで追撃され、3万の兵を失う。挙句の果てに、冉閔に自分の主君の石祗を殺害することを約束し、許してもらうという屈辱まで負わされる。

冉閔はつい最近、10万の兵を失う大敗北を屈していながら、正面からぶつかるとやはり人智を超えたこの強さという、やはりこの男、五胡十六国時代最強で間違いない。


廉臺(れんだい)の戦い

352年4月、前燕君主慕容儁は、襄国を手に入れ常山や中山のエリアにもちょっかいを出し始めた冉閔と決着をつけるべく、

慕容恪を投入する。


前燕軍が迫ってくる報を聞いた冉閔は出陣しようとするが、配下の将軍たちから止められる。

「鮮卑どもは勝ち続けて調子づいております。そして我らの兵の数は少なく、やつらは大軍です。まともに当たるのは避けて、やつらの勢いが衰えたあとに兵を投入してこれを討つとよいでしょう」

これを聞いた冉閔は激怒し、

「わしは今いる兵を率いて幽州までも平らげ、慕容儁のやつを斬ろうとしているのだ!今たかが慕容恪なぞと当たるのを避けてしまえば、天下の諸侯はわしのことをなんと呼ぶと思うのか?!」

冉魏の臣はもはや止めようがないと、みんな自殺してしまう。


緒戦で冉閔は、慕容恪率いる前燕軍と10戦し、すべて勝利する。冉閔とその率いる精鋭の強さに前燕軍は恐怖しおののいてしまう。そこで慕容恪は味方の陣をめぐり、兵士を鼓舞する。

「冉閔は勇のものと言えども、無謀で匹夫の勇を誇るに過ぎない。率いる兵は飢えて疲れ果てており、精鋭ではあるが、使い物にならないだろう。打ち破るのは容易いことだ!」

冉魏軍は歩兵が多く、前燕軍は騎兵中心であることから、冉閔は前燕軍を林の中に引き入れて討とうとしていたが、慕容恪は参軍の高開の策を採用し、冉魏の兵を平地に誘い出し会戦に持ち込むことに成功。


ここで慕容恪は鉄の壁(連環馬)と包囲殲滅陣という戦術を用いる。

まず全軍を三軍に分け、鮮卑の弓が得意なもの5千を選び並べ、さらに鉄の鎖で馬をつなげ連環馬にし、中央に方陣を組みませる。

この中軍の連環馬で鉄の壁を作り(連環した馬はおそらく当時一世を風靡していた鉄騎という重装騎兵)、兵力自体が少ない冉閔軍が決死の突撃をしてくるだろうというのを読み切り、その突撃を鉄の壁で受け止め、その間に左右に伏せておいた兵で包囲攻撃し殲滅。

冉閔は朱龍という汗血馬に乗り、右手に両刃、左手に鉤を持ち、鬼の単騎駆けを仕掛ける。これによりあっという間に前燕の兵300人が討ち取られたという。しかし鉄の壁は突破できず、そこへ左右に伏せていた前燕軍の両翼が挟撃をしかけ包囲が完成、見事なまでの包囲殲滅が完成した。


が、魔王冉閔はこの何重にも包囲された状況から、冉閔はなんと朱龍と共にこの包囲を強引に突破。大軍の前燕軍から完璧に包囲されながら突破するというもはや項羽の域である。包囲を抜けた冉閔と朱龍は東へ20里走るが、そこでとうとう朱龍が力尽きてしまい、冉閔も前燕軍に捕らえられる。


廉臺の戦いのあと、冉閔は慕容儁のいる薊に連行される。

慕容儁は捕らえられた冉閔に問いかける。「お前は奴隷で才能に劣るくせに、なぜ皇帝を称した?」

冉閔はこう答えた。「天下は大いに乱れておる。お前らのような北の広野から来た夷狄禽獣の類が帝を称しているのに、中原の英雄であるわしが皇帝を称せないことがあろうか!!!」

慕容儁はこれを聞いて激怒。冉閔を鞭で300発叩かせ、龍城へ監禁した。


前燕の鄴攻撃が続いている352年5月、冉閔は龍城において処刑される。処刑されたあと、なんと前燕国内で大旱魃が起き、蝗の害が起こるという。慕容儁はあまりに害がひどいので、冉閔を祀り悼武天王とした。死後もなお暴れ続けた冉閔。五胡十六国どころか中華屈指の大暴君である。


中国での評判

「夷狄を虐殺した」というのが中国では高評価されており、中国本国において高い人気を誇っている。中国では「どれだけ異民族に対して強かったか」というのが武将の評価で大きく左右する要素であり、そのため前漢霍去病や、蒙恬匈奴撃退において多大な成果をあげているため、同様の理由から人気である。

なおあくまでネット内での評価であり、中国の歴史学界や、中国全体での評価では無いことに留意されたし。


関連タグ

五胡十六国 中国史 中華思想 暴君

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