ザテトラーク
ざてとらーく
概要
葦毛にベンドア斑という特異な毛色の快速馬で、「まだらの驚異(Spotted Wonder)」と呼ばれた。
主な勝ち鞍はナショナルブリーダーズプロデュースステークス(1913年)、シャンペンステークス(1913年)など。
スタミナ偏重だったイギリス競馬界に圧倒的なスピードを持ち込み「近代競馬のスピードの源泉」とも言われる。
プロフィール
性別 | 牡 |
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毛色 | 芦毛 |
父 | ロアエロド |
母 | ヴァーレン(母父:ボナヴィスタ) |
生産者 | エドワード・ケネディ(アイルランド) |
馬主 | ヘンリー・シーモア・パース、ダーマット・マッカルモント少佐 |
調教師 | ヘンリー・シーモア・パース |
競走成績 | 7戦7勝 |
ヘロド系
エドワード・ケネディは当時のイギリスで絶滅寸前だったヘロド系の復興に熱心に取り組み、フランスやオーストラリアに残っていたヘロド系の種牡馬を輸入したが成果はなく、かえってオーストラリアのヘロド系を滅ぼしてしまうなど思うようにいかなかった。
1909年9月、ドンカスターカップにケネディの生産したダークロナウドが出走したが、フランスから遠征してきたアマディス、ロアエロドに敗れ3着となった。ロアエロドがヘロド系と知ったケネディは2000ギニーで購入した。
1910年、ロアエロドは引退してストラファン・ステーション牧場で種牡馬となり、翌年、ザテトラークが誕生。競走馬として活躍したザテトラークはヘロド系期待の星だったが種付けが嫌いで、11世代で130頭しか産駒を残す事ができなかった。
略歴
1911年
4月22日、エドワード・ケネディ所有のストラファン・ステーション牧場で誕生。
父のロアエロド(フランス語で「ヘロデ王」の意)はヘロド系のフランス馬で、ヴィシー大賞などを勝った。
母のヴァーレンは12戦3勝の成績だが、オーストリア=ハンガリー帝国でリーディングを獲得したボナヴィスタの仔だった。
大柄で骨太な仔馬で、気性は荒く好き嫌いが激しかった。栗毛に黒いベンドア斑が散らばっていたが、毛が白くなるにつれ斑点も白くなっていった。
周囲の人々から「去勢して障害馬にしてはどうか」という意見があったが、ケネディはこれを断った。
1912年
セリに出され、調教師兼馬主のヘンリー・シーモア・"アティ"・パースが1300ギニーで落札。高額だったので従兄弟のダーマット・マッカルモント少佐に折半してもらい、共同で所有する。
馬名はヘロデ王の息子・アンティパスに因み、The Tetrarch(四分封領主)となった。
当初はさほど期待されていなかった。
1913年
4月、パース師がザテトラークを同齢の馬と一緒に試走させたところ、速過ぎてまるで参考にならなかった。2日後に古馬のキャプテンシモンズを含む4頭と5ハロンの試走をさせたが楽勝だった。1週間後にキャプテンシモンズやランドオブソングと試走させても楽勝で、明らかに次元の違うスピードであった。
4月17日、ニューマーケット競馬場の未勝利戦(芝5ハロン)でデビューし、馬なりのまま4馬身差を付けて1着。観客たちはザテトラークの奇妙な毛色と厳つい体に「木馬のようだ」と嘲笑したが、レース後は何か尋常でないものを見てしまったのを理解した。
6月3日、エプソム競馬場のウッドコートステークスに出走し1着。
6月17日、アスコット競馬場のコヴェントリーステークスに出走し、2着カレイジャスに10馬身差をつけ1着(50ヤード差と記録されているので実際は15馬身差に相当)。
7月19日、サンダウン競馬場のナショナルブリーダーズプロデュースステークスに出走。スタートで4~5馬身差ほど出遅れたが1着。
7月31日、グッドウッド競馬場のラウス記念ステークスに出走。オークスステークス勝ち馬のプリンセスドリーに6馬身差をつけて1着。
9月2日、ダービー競馬場のチャンピオンブリーダーズフォールステークスに出走し1着。
9月9日、ドンカスター競馬場のシャンペンステークスに出走し1着。
10月、インペリアルプロデュースステークスを目標に調整されていたが、右後脚で右前脚の球節を蹴りつけて負傷(後突症)。ザテトラークはストライドが非常に大きかったため、これまでも度々後脚で前脚を蹴っていた(シンザンなども同様の症状に悩まされた)。休養に入る。
1914年
春、調教に復帰。ダービーステークスを目標に調整されていたが、再び右後脚で右前脚の球節を蹴りつけて負傷。症状は重く、現役引退となった。
1915年
マッカルモント少佐が所有するバリーリンチ牧場(アイルランド)で種牡馬となる。
しかしザテトラークは種付けが嫌いで途中でやめてしまうことも多く、射精したふりをして誤魔化すなど手が込んでいた。産駒数は年々減少していった。
1919年
イギリスのリーディングサイアーとなった。
1927年
産駒が0となり、実質的に種牡馬引退。当時は種牡馬として役に立たなくなると殺処分が当たり前だったが、乗馬に転じ、郵便物の配達などに従事した。
1935年
8月8日、バリーリンチ牧場で死亡した(24歳)。