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藤原忠平の編集履歴

2024-05-11 07:27:42 バージョン

藤原忠平

ふじわらのただひら

藤原忠平とは平安時代前期の公卿。

概要

藤原基経の三男、官位は従一位、摂政関白太政大臣藤氏長者


経歴

寛平7年(895年)に元服して正五位下となる、昌泰3年(900年)に参議となり公卿に進む、延喜9年(909年)に兄時平が死去した後に権中納言となり翌年に中納言、大納言に進んだ、延喜4年(914年)

右大臣となる。延長2年(924年)に左大臣、延長8年(930年)に朱雀天皇が即位すると摂政となった。承平2年(932年)に従一位、承平6年(936年)に太政大臣となった。天慶4年(941年)に関白となる。天暦3年(949年)に死去。


人物

菅原道真とは親しい関係であり道真の実力を認めていた。兄時平をはじめとした周囲が彼を妬み道真が左遷された際反対派に回って擁護していたし後も手紙を送っていたという。

そのため兄時平や源光をはじめとした道真左遷派の首謀格が次々変死していた時期に生き延びた際は「時平に不当に嵌められ非業の死を遂げた道真と懇意にしていたため祟られずに済んだ」とされ、これが彼の出世の原動力となった。


平将門は忠平の従者であり後に将門が反乱を起こしたが将門を京に呼び出して尋問をされるが後に朱雀天皇の元服の大赦で罪が晴れている。


忠平は死後貞信公という諡号を贈られ貞信公記という日記がある。さらに百人一首に歌がある。


小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ


関連タグ

藤原北家 摂関家 貞信公

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