概要
紙芝居とは、物語の各場面を絵にした何枚かの厚紙を箱形の木枠(紙芝居舞台)に入れ、演じ手がそれを順に見せながら展開を語る演芸の一種。
『紙芝居師』と呼ばれる専門職が数少なくなった昨今では、物語の絵を見せながら説明する形式そのものも紙芝居という。
Pixiv内では漫画機能を使い、これを再現した創作イラストが多く見られる。
紙芝居の変遷
紙芝居の原型は、江戸時代に好評を博した幻燈機(マジック・ランタン)を用いる『写し絵』や、箱の中の絵をレンズから覗く『のぞきからくり』だといわれている。
その後明治中期に『立ち絵』と呼ばれる紙人形を使う演芸が登場し、そこから『紙芝居』の名がついたとされる。
見料(見物料)として菓子を売るのも、この『立ち絵』紙芝居の頃から始まっている。
街頭紙芝居の隆盛
現在のような絵話式の紙芝居は関東大震災後に誕生し、前述の『立ち絵』に対して『平絵』と呼ばれた。
『平絵』の街頭紙芝居は瞬く間に評判になり、昭和初期から昭和30年代後半かけてテレビが台頭するまでは、当時の子供たちに人気の娯楽となった。
『鞍馬天狗』のようなチャンバラ劇や、紙芝居ブームの立役者である『黄金バット』のような冒険活劇、『墓場奇太郎』のような怪奇ものなど作品は様々。
紙芝居師は自転車の荷台に紙芝居舞台を積んでそれぞれの縄張り内を回り、拍子木を打ったり太鼓を叩いたり鐘を鳴らすなどして、町角や空き地に子供たちを集める。
続いて前口上で期待を煽りつつ、まず水飴やソースせんべいなどの駄菓子を売る。
これが見物料代わりで、その売り上げが紙芝居師の収入であった。
駄菓子が買えない子供は紙芝居を見物させてもらえず、紙芝居師に追い払われるはめになる。
小遣いを握り締めて集まった子供たちは、買ったばかりの駄菓子を食べつつ、ドキドキハラハラの物語を堪能した。
演じ手(紙芝居師)は一人でナレーションから登場人物すべてを演じ分け、声色や台詞回しに変化をつけ、時には小道具も使って物語を盛り上げる。
また場面転換にもテクニックがあり、絵全体を動かしたり、次の場面をチラチラ見せたり、絵の引き抜き方に緩急をつけるなど演出にも工夫が凝らされた。
大抵物語の最後には子供たちの興味をそそるような次回への引きが用意されていたが、敢えて最後までは見せず佳境に入ったところで「次回乞うご期待!」と焦らす紙芝居師もいた。
これは常客獲得のための紙芝居師の手管である。
紙芝居師の内情
全国の紙芝居業者は地方ごとに組織化されており、貸元と呼ばれる元締めが作家から紙芝居を買い上げ、配下の紙芝居師たちに差配し、紙芝居師たちは売り上げから規定の上納金を払うというシステムだった。
紙芝居師の大半は飴屋が見物料の水飴を売るように露天商などとの兼業だったが、街頭紙芝居が生まれた初期には、トーキー(発声映画)の普及で職を失った活弁士(活動写真弁士)からの転身も多く見られた。
第二次世界大戦後には敗戦の影響で行き場をなくした失業者が、日銭を稼ぐため元手をかけずに始められる紙芝居屋を選ぶ例も少なくなかった。
戦時下には一度途絶えたものの戦後に街頭紙芝居は再流行を見せ、昭和25年には紙芝居師は全国で5万人に至ったとされている。
紙芝居作家だった漫画家
白土三平や水木しげるなど、無名時代には紙芝居作家だった漫画家も数多い。
戦中からすでに人気作家が少年雑誌に起用され成功を収めていたが、昭和30年代に貸本業が全盛期を迎えると、紙芝居作家は貸本漫画家として活躍の場を移していく。
やがて街頭紙芝居が姿を消した後にも、紙芝居の技巧は黎明期の漫画に受け継がれた。
街頭紙芝居の衰退と再発見
昭和34年4月10日、当時の皇太子・明仁親王と正田美智子嬢のご成婚パレードの影響で、日本全国にテレビが一気に普及。
その結果『電気紙芝居』などと格下に見られていたテレビが本家のお株を奪い、紙芝居業界には急速な衰退期が訪れた。
紙芝居はその性質上保存には不向きで、戦前に上演されていた肉筆作品の多くが戦災で失われるという憂き目にあっている。
また、手描きの紙芝居は最低限の裏書きがあるのみで、台詞は基本的に同業者間の口伝だった。
そのため同じ作品でも演じ手次第で多種多様なバリエーションが生まれたが、街頭紙芝居の衰退とともに、こちらも再演が敵わなくなってしまった。
21世紀に入り文化としての紙芝居が見直され、上述の失われた作品を草の根レベルで捜索・発掘しようという運動が行われている。
他にも街頭紙芝居文化を保存し継承する目的で、個人的に紙芝居師として活動する人も存在する。
近年には昭和の貴重な紙芝居の展示会や、街頭紙芝居の全国大会なども開催されている。
色々な紙芝居
街頭紙芝居に使われた一点物の手描き紙芝居は散逸を免れなかったが、印刷紙芝居は戦後も教育現場などで利用され存続が適った。
教育紙芝居
警察や教育者によって街頭紙芝居の低俗さが問題視され、昭和10年代には子供にとって教育的な内容の紙芝居を作る試みがなされた。
街頭紙芝居との区別のため、子供向けに配慮されたものは教育紙芝居と呼ばれた。
印刷紙芝居が出版されたのもこの頃である。
現在でも紙芝居は幼稚園・保育所・小学校や公共図書館などで児童向けの保育用教材として使用され、読み聞かせが行われている。
惜しむらくは個人での読み聞かせでは紙芝居舞台が用いられることは少ない。
レコード紙芝居
街頭紙芝居の最盛期には、その人気にあやかり『レコード紙芝居』が制作された。ただし内容は街頭紙芝居よりも教育的な題材に限られていた。
昭和40年代に塩化ビニール製で極めて薄手の柔らかいレコード盤『ソノシート』が広まると、レコード紙芝居は内容を一変させて復活する。
※ソノシートは登録商標であるため、実際にはメーカーごとにフォノシート・フィルムレコード・シートレコード等々名称が異なるが、当記事では一般的なソノシートで記述する。
ソノシート付き紙芝居は、童話やアニメの各場面が印刷された大判カードが複数と、ナレーションや台詞の音声、BGM、絵を抜き取るタイミングを知らせる効果音が収められたソノシートがセットになっていた。
このソノシートがかつての紙芝居師に取って代わった訳である。
紙芝居の仕組み
通常紙芝居は、レコード紙芝居のように音楽媒体を使うのではなく、フリップ風の紙の表に一枚絵、裏に文(脚本)が書かれたものを演じ手が読み上げる。
裏書きされているのは、ナレーションや台詞、ト書きといわれる演じ手への演出説明など。
演じ手が語りやすいよう絵の内容と文は一枚ずつズレており、例えば終幕の絵の後ろに冒頭の脚本が書かれているので、タイトルなどが載っている絵を観客に見せたまま序幕を話し始められる。
タイトルのある一枚目の裏には二枚目の絵に応じた脚本が書かれており、紙芝居舞台から一枚目を抜き取り観客から見て一番後ろへと回せば、演じ手は二枚目に合わせた内容を語ることができる。
中にはインドのポト(物語絵)のような絵巻物式の紙芝居もあり、演じ手が語りながら少しずつ絵巻を巻き取るか、専用の巻き取り器に取り付けて、展開に応じて絵巻を回転させていく。
これらは平安時代から鎌倉時代に大いに愛好された『物語絵巻』の楽しみ方を、正しく再現しているともいえる。
紙芝居の作り方
以下は作成手順の一例。
- 紙芝居のテーマを決め、粗筋を考える
- 台詞が主体になっているか、演じやすい展開かどうかに気をつけて、脚本を練る
- 場面ごとの大まかな下絵(箱がき)を描く
- 箱がきをもとに、はがきサイズのひな型を作る
- 裏面から見て右から左に紙を抜くことを想定し、ひな型紙芝居に絵を配置する
- ひな型紙芝居で試演する
- 試演での改善点を反映させつつ、本番サイズの紙に本がきをする
- 本がきでは遠目でもわかるように、輪郭をはっきり描く
- 遠景はなるべく避け、背景も細かく描かない
- 色鉛筆など色が薄く載るものではなく、絵の具のように濃色が出せるもので着彩する
- 擬音や動きを表す線は書かず、観客に伝わりやすい演出を裏面にト書きする
- 本がき紙芝居の一枚目には必ずタイトルを入れる
- 実際に演じて観客の反応を見て、必要なら物語の構成や絵を練り直す
余談
- 童画家のいわさきちひろは活動を始めた当時、紙芝居絵を制作したのが契機となり、本格的に絵描きの道へと進むことになった。
- 料理漫画『包丁人味平』などで知られる漫画家のビッグ錠は、2017年8月の終戦の日に合わせ、自身の空襲体験をもとに描いた『風のゴンタ』を紙芝居用に再編し、戦争を考える一助としての読み聞かせを行っている。
- ネット上での動画配信が一般的となった現在には、静止画に音声をつけて説明をする動画を『電脳紙芝居』と呼ぶことがある。ゲームジャンルの一種としても、同じく『電脳紙芝居』の名称がある。
比喩としての紙芝居
紙芝居という言葉が比喩に用いられる場合、そのほとんどは好ましくない印象を指している。
- 選択肢が少なく構造の単純なノベルゲームは、間々紙芝居的だと揶揄されることがある。
- 本来動画であるはずのアニメが静止画ばかりの時にも、紙芝居と大差がないと皮肉を込めて使用される。