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細川忠利の編集履歴

2024-09-08 00:15:37 バージョン

細川忠利

ほそかわただとし

江戸時代初期の大名。

生没年 1586(天正14)年~1641(寛永18)年

官位 従四位下 左近衛少将

細川忠興の三男。母は明智珠(細川ガラシャは後年の俗称)。

生涯

長兄の忠隆関ヶ原の戦いの後廃嫡されたため、江戸人質に出されていた忠利が家督を継ぐ。

1620(元和6)年、忠興の隠居に伴い豊前小倉藩主となる。

1633(寛永10)年、肥後国熊本藩主の加藤忠広が改易されたことに伴い、熊本へ転封。死去まで同藩を治めた。


大名ながら剣術にも優れていたといわれている。また老齢となった、出戻りの宮本武蔵を家臣と同等に遇して庇護していた。


また、熊本県の郷土料理として知られるからしレンコンは病弱であった彼のために生み出された料理とされ、輪切りにした際の断面が細川家の家紋に似ていた事から、「門外不出の料理とされていた」という伝説が遺されている。

関連タグ

細川 熊本 熊本城

  • 細川藤孝:父方の祖父。
  • 明智光秀:母方の祖父。
  • 柳生宗矩:剣術の師匠。
  • 宮本武蔵:客分として熊本に招いた。
  • 辛子蓮根:忠利が造らせたのが発祥という。
  • ワイン:小倉藩主時代、家臣の上田太郎左衛門に命じてガラミ(エビヅル、山ブドウの一種)を用いた果実酒を造らせた、という文献がある。
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