明治12年8月31日、東京青山御所にて降誕、明宮と称される。
明治天皇第三皇子であり、御母は昭憲皇太后、実母は典侍柳原愛子(柳原前光娘)。
ご幼年の頃は中山忠能が御教育係となり、同邸内に明宮御殿を造って、7歳まで御起臥なされた。
明治18年に青山御所に移られ、土方久元、佐々木高行等が相次いで御教育係となる。
明治20年8月、儲君に治定。明治22年2月、赤坂離宮内の花御殿に移転。明治22年11月3日、皇太子。
明治27年に学習院を退学され、赤坂離宮内に御学問所が設けられて教養を修められた。
明治33年、九条道孝娘節子(貞明皇后)と御結婚。
明治45年7月30日に明治天皇崩御、ただちに践祚され大正と改元。
大正4年11月10日、京都にて即位大礼。
明治天皇の御心を基として万機を総覧されたが、大正11年、久しきにわたる御疾患により、皇太子裕仁親王が摂政の任に就かれた。
大正15年12月25日、神奈川県葉山御用邸にて崩御。宝算48。
昭和2年2月7日、大葬。
業績
在位14年6ヶ月。
数々の御政務の内、普通選挙法の制定をなされたが、これは明治天皇が「五箇条の御誓文」の中に万機公論に決すべしと仰せられた御主旨を拡充されたもので、大正14年3月30日に議会を通過、5月5日に公布された。
一方、大正天皇の御代には日本の国際上の地位は向上した。大正3年、第一次世界大戦に参加して8月23日にはドイツに宣戦、大正6年6月には地中海にて日独海戦がなされた。大正7年11月には休戦条約が成立し、かくて世界五大強国に列し、国際政治上重大な諸会議に参与、東洋平和の維持に重要な位置を占めるに至った。
また皇室諸法規の完成を遂げられ、数百年来の疑問であった長慶天皇の御在位を確認されて、これを歴代に加えられ、皇統にかかる疑問を一掃された。
先代の明治天皇は近代において一大事業に着手されたが、大正天皇はその偉業を守る重要な役割を巧みに果たされただけでなく、それをまた新しく有益な方向へと運んでいかれたのであって、大正時代は異彩を放った、史上没却できない貴重な時代であったといえる。
本格的な産業化の中で、大正天皇は重要な地位を占めておられたが、日本の産業は数倍の発展を見て、海運事業は驚嘆すべき躍進を遂げ、大戦を経て全世界を股にかける大企業となった。
経済も明治時代とかけ離れた画期的発展を遂げ、貿易は5倍、銀行預金や銀行会社の払込資本はいずれも6、7倍となり、大正9年の財界反動期や大正12年の関東大震災後においても経済的数字に大きな萎縮の跡を示さなかった。
世界との交流に関しても大正時代はまた格別な年代であった。大正天皇は韓国をも訪問され、王世子李垠をたいそうお気に召して朝鮮語の勉強を始められた。皇太子裕仁親王をイギリスへお渡らせになり、その御弟秩父宮も海を渡ってイギリスの大学教育までお受けになった。大正天皇は君主として国際交流の大きな波を乗り切られ、第一次世界大戦後の時期に日本は世界平和に貢献して、その治世下において日本は初めて世界強国と対等に交際することができた。
また大正天皇は一夫一婦制を導入され、貞明皇后との御夫婦仲睦まじく、宮中の様子は一変してよく治まり、裕仁親王、雍仁親王、宣仁親王、崇仁親王の皇子お四人すくすくとお育ちになったが、ここにおいても大正時代は画期的な年代であった。
幼少より病弱であり、皇太子時代は父帝に代わる形で外交にも励んだが、即位後は体調を崩し長子裕仁親王に実務を任さざるを得ない場面も多くなり、その後親王が摂政に就くことで事実上公務を引退した。
ただしその後体調は改善の傾向に向かっており、側近に公務に戻りたい旨を漏らしていたともされている。摂政の任期に対して現行法における規定は無いのだが、この事例により「摂政=一度就くと離任はない」という暗黙の了解が広がっているようであり、これが今上陛下が80歳近くになっても摂政就任論が燻ったままになっている要因の一つとも言える。
長らく父帝の皇后である昭憲皇太后を「実母」として育ってきたが、崩御直前になって生みの母・柳原愛子と再会した。愛子は崩御されるその時までずっと大正天皇の手を握りしめていたのだという。
帝王の文藻
大正天皇ははなはだ文藻に富まれ、和歌に漢詩に多数の御製が伝わり、ことに漢詩に至っては、御歴代中最も多くの御作を拝せられ、この道にすぐれられていた。
さらに、その気宇壮大な書は、かねて専門家の斉しく鑽仰するところである。
かきくらし雨降り出でぬ人心くだち行く世をなげくゆふべに(大正9年の御製)