概要
大正2年に生まれる。
松濤館空手の船越義珍に師事し、『社団法人 日本空手協会』の設立に尽力する。生前は日本空手協会主席師範九段。伝統派空手の論理的な技術分析には定評がある。
作家のC・W・ニコルは中山の愛弟子の一人。 『C・W・ニコルと21人の男たち』によると、山口県の中山家は信州真田氏の真田信繁の末裔だと記されている。
ニコルも尊敬する中山の葬儀に参列し、涙を流して非常に悲しんだという。
昭和62年没。享年74歳。
塩田剛三との交流
空手本来の武道としての理合をを大切にしていた中山は、スポーツ的な試合ばかり盛んになったり、板やレンガを割るデモンストレーションが盛んになることを憂いていた。そういうことから、合気道の理合にも理解を示した。
塩田剛三は中山に関して、
「拳を鍛えているやつなんか、あまりたいしたことはない。わりと手のスルッとしたやつのほうが、技を効かせることができる」
と言っていたのが印象的だったと言う。
中山は空手もスポーツ的になって、若者が試合のめの稽古しかしなくなったため、ルールの中の相手と対等にぶつかり合う動きしかできなくなり、柔道と同じく、日本人はいまに空手も体力に優れる外人にやられてしまうのではと危惧していた。
そこで、これからの指導のポイントは、体さばきにあると考え、中山は塩田に「指導者に合気道の体さばきを教えてくれ」と依頼し、それに応えた塩田は1ヶ月くらい松濤館で指導を行った。