概要
大正2年(1913年)に生まれる。
中山家は戦国の大名家である真田家の家臣で、後の信州松代藩で先祖代々剣術指南を務めていた家柄であり、曽祖父の中山兵右衛門は神道無念流の剣術家であったという。
その後、祖父の中山直道の代に明治維新を迎え、祖父は上京して医者(外科医)となって父もその後を継ぎ、彼も親からは医師となれるように育てられた。
しかし、空手を学びたい気概があったため、昭和7年(1932年)に父の意思に背いて拓殖大学に入学、その後船越義珍に師事し、松濤館流空手を修行する。
5年後には北京大東学舎の留学生として中国に渡り、台湾にも出向いた。
その後、終戦した後の昭和21年(1946年)帰国し、その後は日本初の法人格を有する空手団体『社団法人 日本空手協会』の設立に尽力、昭和33年(1958年)には、日本空手協会の首席師範に就任した。
晩年まで空手道の普及と発展に貢献し、昭和62年に没した。享年74歳。
生前は日本空手協会主席師範九段。伝統派空手の論理的な技術分析には定評がある。
エピソード
塩田剛三
空手本来の武道としての理合を大切にしていた中山は、合気道の理合にも、理解を示していた。
中山は板やレンガを割るデモンストレーションや、スポーツ的な試合ばかりが盛んになり、若者が試合のための稽古しかしなくなったため、ルールの中の相手と対等にぶつかり合う動きしかできなくなり、柔道と同じく、日本人はいまに空手も体力に優れる外人にやられてしまうのではと危惧し、憂いていた。
そこで、これからの指導のポイントは、体さばきにあると考え、養神館合気道の塩田剛三に、「指導者に合気道の体さばきを教えてくれ」と依頼し、それに応えた塩田は、約1ヶ月松濤館で指導を行った。
塩田は中山に関して、
「拳を鍛えているやつなんか、あまりたいしたことはない。わりと手のスルッとしたやつのほうが、技を効かせることができる」
と言っていたのが印象的だったと言う。
三島由紀夫
小説家の三島由紀夫と対談したことがあり、1969年(昭和44年)に雑誌『勝利』の6月号にて、『サムライ』というタイトルで掲載され、彼の対談集である『尚武のこころ』にも所収された。
作中では、空手談義や祖国日本の将来を互いに憂う内容が、語り合われている。
C・W・ニコル
ウェールズの作家であるC・W・ニコルは、中山の愛弟子であり、彼の元で松濤館流空手を修行し、自身が尊敬する人物の一人に中山の名を挙げている。
彼の著書『C・W・ニコルと21人の男たち』によると、山口の中山家は信州真田氏の真田信繁(真田幸村)の末裔だと記されている。
中山の葬儀が行われた際も参列し、涙を流して非常に悲しんだという。
彼はその後、1995年に日本国籍を取得し、以降は「ウェールズ系日本人」を自称していた。