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藤原不比等の編集履歴

2013-06-13 20:09:16 バージョン

藤原不比等

ふじわらのふひと

飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家。正二位右大臣。藤原氏の始祖である藤原鎌足の次男であり、4人の息子らと共に藤原氏繁栄の基礎を固めた。

飛鳥時代奈良時代初期にかけての公卿・政治家。

斉明天皇5年(西暦659年)~養老4年(720年)8月3日

父・鎌足が藤原姓を賜ったのは死の直前で生前には使用していないこと、鎌足の子で藤原姓を次いだのは不比等のみであったことから、彼の方こそが事実上の藤原氏の始祖と解釈することも出来る。


また、名前の「不比等」とは役職名「史(ふひと)部」から来ていると言われ、後に「比べて並ぶ者がいない」、要は無双の意味合いで字が当てられた。


概要

藤原氏の始祖、藤原鎌足の次男。天智天皇の「御落胤」という説があり、むしろかつては広くそのように信じられていた。

藤原四兄弟と呼ばれる息子ら(藤原武智麻呂 藤原房前 藤原宇合 藤原麻呂、それぞれ南家北家式家京家を開く)と共に藤原氏隆盛の基礎を築き、最初の黄金時代を作り上げた。

娘たちを皇室に嫁がせ外戚として権力を振るう手法を用い、中でも娘の1人・光明子は初の皇室以外出身の皇后となった。

この手法は後に摂関政治として確立され、現代に至るまでの藤原氏繁栄のもととなった。

奈良に興福寺を創設、大宝律令や養老律令の編纂作業に携わるなど精力的に活動するも、720年に病死。死後に贈正一位太政大臣が贈られた。

また「古事記」の編纂者である稗田阿礼と同一人物であるという説がある。

竹取物語に関して

竹取物語に不比等自身が直接登場するわけではないが、かぐや姫に求婚し「蓬莱の玉の枝」を要求された車持皇子のモデルが彼であるとする説がある。

かぐや姫に求婚した5人の貴公子のうちの3人(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)までは実在の人物であり、残り2人も実在の人物がモデルであると考えられる。ここで2人のうち車持皇子は不比等の母は車持氏出身であり、「皇子」も平安当時彼が天皇の御落胤と広く信じられていたことが不比等に合致しており、これがモデル説の根拠となっている。ちなみにもう1人の求婚者である石作皇子は宣化天皇の玄孫である多治比嶋がモデルの候補としてあげられている。




関連タグ

藤原氏 藤原鎌足

藤原武智麻呂 藤原房前 藤原宇合 藤原麻呂


竹取物語 かぐや姫 車持皇子

藤原妹紅 稗田阿求 蓬莱山輝夜 豊聡耳神子

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