正しくは「満洲」。pixiv内では地名としての満州と、満洲人により樹立された帝国・満州国のどちらかを指して使われている。国の場合は「満州国」を参照。
範囲
「満州」の範囲は定義が難しく、大抵は現在「中国東北部」(東北三省)と言われている遼寧省・吉林省・黒竜江省と内蒙古自治区の北東部を指すことが多い。満州国の領土がこの範囲であったのもこれによる。
しかし実際にはその北側(外興安嶺山脈以南)および東側(日本海沿岸)の、現在ロシア領になっている地域も、19世紀に戦争で奪われるまでは満州の一部であり、現在も「外満州」と呼ばれることがある(この場合中国領の部分は「内満州」と呼ばれる)。
名前の由来
「満州」=「満洲」の名前をつけたのは、地元の部族・女真族の長であり、後に清となった王朝・後金の第二代皇帝であった愛新覚羅ホンタイジである。先代のヌルハチと違い、本格的に中国を獲ろうと弱体化した明を攻め立てた彼は、その討伐がかなうように五行思想を用いて一種の縁起担ぎを行った。
五行思想はこの世のものは木・火・土・金・水に分けられるとし、それらが互いに生じ合ったり(五行相生)、互いに牽制し合ったり(五行相剋)すると考えた。その思想は徹底しており、王朝までもその「徳」に属性がつけられていた。ホンタイジは、この五行思想による明朝の「徳」の属性が「火」であったことから、火を剋する「水」を持って来るため、王朝名を「清」、部族名を「満洲」と改めたのである。特に「満洲」は字がよいばかりでなく、後金の元になった「マンジュ・グルン」(文殊国)と音が通じているのでちょうどよかったわけである(ただし「満洲」の元が「マンジュ・グルン」であるという説には異論もある)。
したがって、「満洲」「マンジュ」とは、本来は地名でなく民族名である。清朝は自分たちの故地を「東三省」と呼んだ。地名として使われるようになったのは、外国で「満洲族の地」→「満洲」として使用されたのを逆輸入して以降のことである。
満洲を侵略する中国人と現在の満洲の扱い
満洲の地は満洲族の父祖の地であったが、そこに人がいなかった。
しかし一方で中国人は、「封禁令」を破って侵入を繰り返していた。
西暦1912年に建国された中華民国は南方の14省のみで、内外満洲、南北モンゴル、ウイグル(東トルキスタン)、チベット、その他の軍閥の地域は中国の外であり、四分五裂の軍閥闘争が繰り返されていたのであって、統一されてはいなかった。
第二次世界大戦後に建国され、満洲国を併呑した中華人民共和国政府は、日本の友邦であった「満州国」を想起させることから、「満洲」に関わる一切の呼称を忌避している。旧満州国について言及する際は「偽満州国」と称し、民族名を呼称する時ですら「満洲族」から「満族」と言い換えている。
中華民国当時、行く先々で食べ物を奪い人を殺して歩いていた共産党が、最終的に満洲の地を侵略してしまったという悲劇的な結末である。
日本側もそれに配慮して、仮に使用する場合でも「中国東北部(旧満州)」という奥歯にもののはさまったような表現を行っている。またこの場合、常用漢字に「洲」がないことからさんずいの正式表記ではなく「満州」が用いられる。
このようなことから、「満州」という表現を使っているだけで特定の思想を持った人間として扱われる雰囲気が一部にある。特にさんずいつきで使用する者に対して、冷たい眼を向ける者も少なくない。
しかし、あくまでこの地名が公的な場でストレートに使われないのは外交的理由によるものであり、伝統的地名であることは動かせない。また命名の経緯から言って、正式表記はさんずいのつく方である。「満州」「満洲」を用いているからといって、みだりにその人物を白眼視することは厳に慎むべきである。
なお余談であるが、埼玉県所沢市に本社を持つチェーンの中華料理店「ぎょうざの満洲」は、商号にさんずいの「満洲」を用いている恐らく日本で唯一の会社である。
関連タグ
満州族 清朝 チャイナドレス チャイナ服 満州事変(満洲事変)
支那 南モンゴル(内蒙古) チベット ウイグル(東トルキスタン) …内満洲と共に、現在の中華人民共和国を構成する領土。