旧日本陸軍の開発した四式中戦車の開発コード「チト車」の事で、これに関連するイラストにつけられるタグである。
由来は中戦車の『ち』と、開発順をイロハ順で示した『と』を組み合わせたもの。
概要
先述の通り制式名称は四式中戦車。この四式とは神武天皇が即位されたとする年を起源とする皇紀2604年(1944年、昭和19年)制式採用を示す。その時期から見て取れる通り大戦も末期に入っての制式化であり、さらに量産体制は整わず、生産数は諸説あるが最大のものでも十数両程度でしかない。
主砲は五式七糎半戦車砲(長)II型(75mm56口径)を搭載し、正面最大装甲厚は75mm。エンジンは4ストローク空冷ディーゼルで出力は400hp。と、日本陸軍としては空前の大型戦車である。
これらの内容、及び敗戦間際の泥縄的な経緯から、「T-34やM4シャーマンに対抗して開発された」と誤解されがちだが、実際にチト車が計画されたのは九七式中戦車(チハ車)の制式化された1937年(昭和12)の事である。これは同時に計画された一式中戦車(チヘ車)と開発コードが連番である事からも容易に解かる。
しかし、「戦車は歩兵の肉薄攻撃に弱い」という誤った認識(とはいえ1937年当初はこの認識は世界共通といってもよかった)を抱き、硬直化した陸軍の体勢、また、国鉄の限界断面の狭さや20トン超の戦車を運搬可能な吊り下げデリックを持つ輸送船が少ないという、島国である日本が抱える輸送の問題、などから、この時点ではチハ車の全溶接形に過ぎないチヘ車の開発が指示されチト車は一旦お蔵入りとなった。
太平洋戦争の始まった1942年(昭和17)になって、現状の陸軍の装備では米軍の戦車に太刀打ちできない状況がはっきりした為に、一式四七粍機動速射砲の車載型である試製四七粍戦車砲を搭載する新戦車として、ようやく開発が開始される。この砲はチハ車の改装車(九七式改)に搭載された砲として有名だが、本来は重装甲の新車体を予定したものだったのである。
さらに開発中に試製五糎七戦車砲搭載(新)に変更されるが、これは当初より予定されていたものであった。
しかしながら、この試製五糎七戦車砲の成績が不振であったことから、この形態のチト車は試作1両のみで中止された。
同時期、戦車の重装甲化に対抗するため、各国で高初速の高射砲を戦車砲に転用した強力な戦車砲が開発されていた。日本でもスウェーデンのボフォース社製75mm高射砲(これは日中戦争で中華民国軍から鹵獲したもの)をベースとした車載砲の開発が行われていた。
この砲は有名なドイツのFlak88のベースになった優秀なものだったが、日本陸軍にはこれのプラットホームとなりえる車体が存在しなかった。そこで口径を詰めて半自動装填機構を廃し、軽量化すると共に、開発中だったチト車を改造して組み合わせ、新中戦車とすることになり、2号車以降の製作が開始された。これが四式中戦車として採用される車体である。
主砲は、昭和18年の時点では1000mの距離で75mmの装甲板を打ち抜くのが目標であった。75㎜という数値は当時の陸軍の仮想敵であったソ連の重戦車kv戦車の装甲厚が由来である。(「戦史叢書」には本砲完成直後の昭和19年9月付けの近衛第三師団調整資料には1000mにおいて100㎜貫通しうることが計画されていた。)
本砲は昭和19年に完成し昭和20年3月ごろ射撃試験が行われ結果は総合的には大体良好だったとしている。肝心の貫通性能は不明だが1000mの距離で主敵であるM4の傾斜した前面装甲を数値上は撃ち抜けるものだったという。(陸軍はM4の砲塔前面は85㎜、車体65-51㎜の45度の傾斜装甲だと想定。)
装甲にかんしては最大装甲厚の75㎜という数値もkv戦車からきており75㎜野戦砲の直射を500mで耐えられるものとして設定された。実は車体は、本来57mm砲を搭載することを想定しており新型の75㎜砲を搭載することは想定していなかった。急な変更で75mm砲に換装時に砲とのバランスが悪化してしまった。しかし車体構成をやり直す時間もなくやむを得ず車体後面を厚くすることにより辛うじてバランスを保つことが出来た。もっとも、これはこれ以上の砲や前面装甲の強化を望めないことを示すものだった。
ただ、チト車の計画自体、対戦車戦闘を考慮したとは言っても、ドイツの電撃戦に端を発する戦車部隊同士の戦いではなく、単に敵の戦車が強力であるという前提に過ぎず、技術力というよりは対戦車戦闘そのもののノウハウの不足から来る、砲や装備の未充足部分がいくつもあった(とはいえ、キューポラは装備していた。これは独ソ米でもティーガーIやM4初期型についておらず乗員がハッチから身を乗り出して狙撃される例が相次ぎ、T-34に至っては改善されるのは戦後である)
また、米軍の戦車を参考に抗堪性の高い鋳造砲塔を採用しようとしたが、日本の製鉄所ではこれほどの大物を一体鋳造することが出来ず、やむを得ず複数のパーツごとに鋳造し溶接するという泥縄的技法をとったものの、鋳物特有の歪みにより溶接段階になって難儀するなど、お粗末な顛末により制式化が遅れた。
とは言え、それまで日本の戦闘車両の高性能化を阻んできた一〇〇式統制型ディーゼルを脱却し新型としたこと、油圧サーボ操縦系を採用したこと、などにより、九七式より僅か10トン重いだけで各国の主力中戦車の水準と同等の能力を持ち、しかも九七式と同等の機動力を持つ、極めて優秀な戦闘車両だった。
(同クラスの各国の戦車の足回りの信頼性は劣悪で「走れば壊れる」という代物だった。それをドイツは整備兵の技術力の高さで、米ソは補給と数で補った。日本の戦車はその点において、特に重量物の牽引に適したディーゼルエンジンと独特の圧縮コイル式サスペンションに由来して極めて優秀で、1万kmをメンテフリーで走行する車両もあったという)戦後、四式の1両を接収した米軍の技術官も「もしこの戦車が1年早く量産されていたら、太平洋戦争の趨勢は違っていただろう」と発言している。
とはいえ、ヨーロッパの戦車がいわゆる「T-34ショック」の結果、急激に重装甲・高火力化していく中、日本の新戦車開発の遅れを象徴するような戦車である。
完成した車両は2両説、6両説、12両説などはっきりしないが、いずれにしろ陸軍上層部は本土決戦に備えて温存する方針であり、ついに実戦を経験せずに終わった。日本列島内での移動に関しては本州と九州においては国鉄の輸送限界をぎりぎりクリアしていた。唯一、飯田線の狭隘トンネルの一部が干渉したという。
また終戦時三菱重工社内には三式中戦車(チヌ車)のものをベースとした溶接砲塔の車両の図面が残されていたというが、この真相も定かではない。
2011年現在、静岡県の浜名湖北の猪鼻湖底に九七式中戦車やユニバーサルキャリア等と共に眠っている事が確認されている。
だが、プラモデルとしては2012年7月に発売が予定されている。
2013年現在、「猪鼻湖に眠る『幻の戦車』調査プロジェクト」が地域活性化団体「スマッペ」により行われた。音波探査により、チハ(チヌ?)と思わしき車輛の存在は判明したが、泥の中に埋まったと思われるチト発見には未だ至っていない。
キャラクターとしてのチト
優秀な性能を持ち得ながらとうとう実戦に間に合わなかった兵器として、『悲劇のヒロイン』的に扱われることが多い。『擬人化』も、日本人離れしたややグラマラスな印象を持つ(ただし、それでもソ連のJS重戦車やアメリカのM26パーシングにはかなわない)ことが多い。
或いは、61式、74式、90式、10式と世界最強級戦車を次々に送り出した戦後日本の戦闘車両製造技術の礎と見なす向きもある。
チト車を好きな者は多い。が、その萌えポイントはチハ車のような貧弱さではなく、見ることのなかった悲劇の高性能への憧憬である。その為、間違っても「たん」なんてつけて喜んだりはしない > ザクとは違うのだよ。