宮城事件
きゅうじょうじけん
1945年、太平洋戦争において日本の敗色が強くなってきた中、二度にわたる原爆投下とソ連の参戦を受け8月14日、当時の政府はポツダム宣言の受諾を連合国側に通達した。
しかし陸軍がこれに反発した。海軍、空軍は殆ど壊滅状態に陥っていた中、陸軍は本土決戦用に温存されていた為230万人もの兵力が温存されていた。こんな状態で無条件降伏を受け入れることは当時神の国と呼ばれていた日本人として受け入れられないものだった。
そこで陸軍所属の畑中健二少佐と椎崎二郎中佐の二名が首班となり、この2名を含めた計6名の陸軍将校が当時の陸軍大臣である阿南惟幾大将に「兵力使用計画」というクーデター計画を提示し、賛同を求めた。
計画の内容は近衛第一師団と第十二方面軍で皇居を占領し、天皇の擁護と和平派の追放、ポツダム宣言の破棄と戦争継続を求めるものだった。
しかしこの計画は阿南大臣らに否定されて頓挫し、すでに連合国側にポツダム宣言の受諾は通告されていた後だった。
畑中らは東部軍の参加を求めたが、第十二方面軍司令官・田中静壱大将の理解を得られず、若手将校のみでクーデターを実行する事を決定。15日に放送される玉音放送を阻止し、その後改めて天皇擁護と戦争の継続に方針を転換した。
8月14日深夜、情報局総裁の下村宏と玉音放送収録に立ち会ったNHK放送技師の玉虫一雄を帰宅途中に襲撃して監禁。しかし彼らは玉音盤を持っていないため宮内庁に移動。
蜂起に加わるようにという説得に最後まで反対した近衛第一師団長・森赳中将を殺害。偽の師団長命令を出して近衛歩兵第二連隊で皇居を占拠。電話線の切断や近衛警察武装解除を行い玉音盤の捜索を開始した。
しかし一晩中探しても見つからず、放送会館を占拠して放送を妨害し国民にラジオを通して武装蜂起しようとしたもののこれにも失敗。
8月15日の早朝、田中静壱大将が自ら麾下の部隊と共に皇居に乗り込み鎮圧。主犯である畑中と椎崎は自殺。
予定通り8月15日正午に玉音放送は行われた。
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ある日、東京にて(序章)
お凌ぎでもう一本短編を。 これまでちょこちょこ会話だけは出てきていた、比企谷五山と雪ノ下夏華の物語の序章をちょいとご紹介。 これもどこかでちょいちょい出していくことになると思いますので、こちらもよろしゅう。 まあ、終戦直前のごたごた話のために「日本の一番長い日」とか読んでいるんですが、これがまた「そりゃあ負けるわなあ」という組織的流れしか出てきません。 見たいものしか見ず、必要な情報を精査できない組織って最後は自縄自縛で終わりますわな。 勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし、とは名将野村監督の言葉ですが、これ、戦争にも当てはまります。2,240文字pixiv小説作品