概要
1932年(昭和7年)5月15日に、政府に反発していた海軍の青年将校達が、『昭和維新』と称して政党政治の首班たる犬養毅首相らを襲撃し結果2名を殺害した事件である。
背景
1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況は日本にも大きな影響を及ぼし、国内では企業倒産が相次いだ上に農村が窮乏化、社会不安が増していた。
さらに日本では普通選挙による議会制民主主義こそ根付き始めていたものの、まだまだ未熟なシステム下で誕生した政党内閣は不安定な部分もあった。その一方、第一次世界大戦後の世界情勢は世界平和の名目で全体的な軍縮の方向へと動いており、日本では日露戦争後に開かれたポーツマス講和会議の講和条件を巡り多くの新聞社が政府に対し批判の論陣を張り、国民の多くが新聞社に煽られ世論は戦争賛美に傾いてしまった。
その後、日比谷公会堂が焼き討ちにあい、講和条約を結んだ小村寿太郎が国民的な非難を浴び、唯一徳富蘇峰の国民新聞だけは反戦を主張したが、 その国民新聞も後に焼き討ちにあうなど全国で反政府暴動が起き、軍部内部の徹底した皇民化教育を受けていた士官や兵士たちの間では鬱屈した感情の下、天皇陛下は絶対に正しいがそれを取り巻く政治家及び彼らの政党政治こそが日本を腐敗させているという考え方が蔓延していった。
そんな情勢下、1931年に関東軍の一部によって満州事変が勃発した。
これに対し若槻禮次郎内閣は有効に収拾させることが出来ずに総辞職し、犬養毅政権が成立する。
犬養は1930年のロンドン海軍軍縮条約での政府の対応を統帥権干犯を絡めて批判していたこともあって満州事変における関東軍の行動それ自体はほぼ黙認したが、外交による解決を優先したために軍部の要求した満州国の承認を拒否。さらに犬養が陸軍の統制回復のために革新派将校の大量首切りも考えていたことが明らかになったことで、軍部はさらに犬養への不満を募らせていく。
そして1932年5月15日、軍縮の方針に反発していた海軍中尉古賀清志を中心とした『昭和維新』を唱える海軍青年将校ら一派によって事件は起こる。
事件の発生と経過
5月15日は日曜日であったため、犬養は終日官邸にいたところを襲撃された。
第一組は、三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入。警備の警察官を銃撃し重傷を負わせ、この内の1名が5月26日に死亡。
三上は食堂にいた犬養に制止されて説得を図られたが、直後に裏から突入した別の決起メンバーが犬養の腹部を銃撃。次いで三上が頭部を銃撃し、犬養に重傷を負わせて逃亡した。
それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、深夜になって死亡。
その後も一行は牧野伸顕内相官邸、警視庁、三菱銀行を攻撃した他、さらに右翼結社などによって構成される別働隊が変電所を襲撃したが、こちらはいずれの被害も軽微なものにとどまった。
要人暗殺に加えて変電所を襲撃したのは、東京を暗黒化させて混乱を誘い、戒厳令を敷かざるを得ない状態にしてからそのドサクサに軍閥内閣を樹立するというのが当初の計画のためであった。
中心メンバーとなった18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。
6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙。
7月24日、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。
9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。
事件後
事件後、国内の内乱によって国力が衰えることを危惧した政治家たちは、反軍的な言動を差し控えるようになり、この事件を受けた元老院により犬養の後任として斎藤実元海軍大将が首相に任命され、日本の政党政治は一旦停止する。
また、五・一五事件は間違いなく軍事クーデターであったにも関わらず、当時の新聞社は彼らを“英雄”と称して、政府に対して減刑を主張し、それによって国民を煽ったことにより、国民運動にまで発展した減刑嘆願が起こり、そのために事件の首謀者たちは非常に軽い刑で済まされた。
この異常な減刑が、事件の余震とも言える(余震のほうがデカかったが)1936年の二・二六事件の後押しとなってしまう。