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ミケランジェロ・ブオナローティの編集履歴

2014-09-15 22:42:35 バージョン

ミケランジェロ・ブオナローティ

みけらんじぇろぶおなろーてぃ

『ミケランジェロ・ブオナローティ』(Michelangelo Buonarroti)とは、中世イタリアに存在した歴史上の人物。

概要

正式名称は『ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ』(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)。


14世紀から16世紀にかけて、イタリアを中心とした西ヨーロッパで勃興した文化復興運動『ルネサンス』で活躍し、レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロ・サンティと共に「ルネサンス三大巨匠」の1人に列する代表的な芸術家


古代ローマ期の作品を深く研究して従来の絵画彫刻建築様式に伝統美を盛り込んだ革新的な技術を確立し、後の美術史に多大な影響を及ぼした事から「改革者」の異名を持つ。


来歴

1475年3月6日、フィレンツェ近郊のカプレーゼ村に生まれる。幼少期からすでに美術に興味を示していたとされており、1488年に単身でフィレンツェに移るとドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio)に弟子入りし、稀有の才能に驚嘆したドメニコによって当時のフィレンツェを治めていたメディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici)の紹介を受ける。これによって、パトロンとしての援助を得てロレンツォ公の庇護の下にメディチ家の彫刻学校に通う一方、メディチ家に出入りする人文主義者の集会『プラトン・アカデミー』に多大な影響を受けて自身の芸術に関する着想の幅を広げる。


1492年にロレンツォ公が病没し、家督が長男のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Piero di Lorenzo de' Medici)に移るとパトロンの解約を通達され、ヴェネツィアを経てボローニャに移住する。1496年にローマサン・ジョルジオ枢機卿(San Giorgio)の招聘を受けて食客となり、フィレンツェに戻るまで古代彫刻の研究に没頭していた頃、ラファエーレ・リアーリオ枢機卿(Raffaele Riario)の依頼を受けて『バッカス』を、フランス王国大使のジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ枢機卿(Jean de Villers de Ragurora)の依頼を受けて『サン・ピエトロのピエタ』を制作する。ところが、後者のピエタは彫刻家としての絶大な名声を得るほどの評価を受けた反面、前者のバッカスは「どうにか立っているほどに酩酊し、過度の飲酒で贅肉が付き始めた青年」とする姿がリアーリオ卿の反感を買って購入を拒否されるという両極端の結末を迎えている。


フィレンツェに戻って迎えた1501年に、新たにフィレンツェを統治する共和国政府の依頼を受けて『ダヴィデ像』を制作し、同時期にフィレンツェの商人アニョロ・ドーニ (Agnolo Doni) の依頼を受けて『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ』も手掛けるが、1506年にローマ教皇ユリウス2世によって半ば強制的にローマへ戻されると、多数の彫刻に彩られた豪奢な墓標を制作する勅命が下される。


この時、すでに様々な依頼を抱えて多忙を極め、さらにユリウス2世本人から墓標の設計について細かな注文が相次いで制作が思うように進まず、結果として晩年の1546年まで延々と続く仕事となる。ところが、1508年になるとシスティーナ礼拝堂の天井画を制作する新たな勅命が下され、本業ではない画業の依頼に不服を覚えつつも『天地創造』を制作する。


ユリウス2世の死後、動乱の渦中に巻き込まれて立場を二転三転とするが、フランスへ逃亡していた折にローマ教皇クレメンス7世の招聘を受けてローマに戻ると、システィーナ礼拝堂の祭壇背面壁画の作成を依頼される。『天地創造』の時と同様に、画業の依頼に対して不服を感じていたために制作は停滞していたが、クレメンス7世の死後に即位したパウルス3世の執拗な催促を受けて『最期の審判』を制作する。1546年に建設途中のサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となり、建設上の様々な問題に直面しつつも着々と工事を進めたが、1564年2月18日に道半ばで死去。享年88。


業績

レオナルド同様に、本業は彫刻家でありながら様々な方面に才能を発揮した極めて器用な人物である。さらに、当時の平均寿命から考えて類稀な長命を誇った80余年の人生の大半を芸術活動に捧げ、ルネサンスからマニエリスムバロックへの芸術形態の橋渡しを行った大人物でもある。


しかし、その体に刻まれた労苦の痕跡は筆舌に尽くし難いものがあるとされ、「『天地創造』の制作では常に上を向いて作業をしなければならず、首を曲げた格好で作業を続けた末に首の骨が曲がり、天井から滴る絵の具を目に受け続けた末に著しく視力を損ない、晩年は盲目に等しかった」とする逸話が残されているほどである。

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