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豊臣秀長の編集履歴

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豊臣秀長

とよとみひでなが

豊臣秀吉の弟である戦国武将。

概要

天文9年3月2日(1540年4月8日)~天正19年1月22日(1591年2月15日)

豊臣秀吉で、兄の秀吉を内政・軍事などで影から支えた戦国武将

秀吉の実弟か異母弟かは不明。幼名は小一郎(または小竹)。


小一郎が生まれた時、木下藤吉郎は家出しており、藤吉郎がねねと結婚した後に再会し、兄と共に織田信長に仕えたといわれる。

天正元年(1573年)に長浜城主となり、数年後に藤堂高虎が仕え、この頃から「秀長」と名乗った。

羽柴姓を名乗るようになってからも、兄や黒田官兵衛と共に転戦を繰り広げ活躍した。

本能寺の変に際して、毛利攻めをしていた兄と一緒に中国大返しをし、明智光秀を倒した。

天正13年(1585年)の四国攻めでは病気の秀吉の代理として出陣し、苦戦しながらも長宗我部元親を降伏させた。この功から大和奈良)の領地を与えられ、郡山城主となった。

天正14年(1586年)の頃から体調を崩すようになったが、同年に上洛した大友宗麟に秀吉は「私的では千利休に、公的では宰相(秀長)に任せている」と述べるほど欠かせない存在であった。

翌年の九州攻めにも同行した秀長だったが、天正18年(1590年)から病気が悪化し、小田原攻めには参加しなかった。

天正19年(1591年)に郡山城で亡くなった。享年51歳。最終官位は権大納言。


戦国時代では影の薄い武将だったが、兄とその政権を各武将との調整役として、内政と軍事の各面で辣腕を奮い、兄をまさに影から支えてその天下統一に貢献した。

しかし、秀長の存在は政権の屋台骨でもあり、秀吉を制御できる数少ない補佐役でもあったため、秀長死後の利休切腹や朝鮮出兵豊臣秀次切腹など、秀吉が暴走を起こし、政権が短命に終わった要因になったとも言われる。

後に豊臣家を滅ぼす事になる徳川家康からも、その優れた政治能力に一目置かれていたとされており、秀長がもう少し存命していれば、たとえ秀吉の方が先に没しても、豊臣家との対決は諦めざるを得なかったとさえ言われている。


ちなみに、秀吉同様貧しい幼少期を過ごした経験か、相当な倹約家であったらしく、死後に溜め込んでいた貯金を見たところ、限界まで縦に積んで、だだっ広い部屋が埋まるほどの量を溜め込んでいたらしい。


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豊臣秀吉 ねね 織田信長 藤堂高虎 黒田官兵衛 千利休 徳川家康

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