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宇都宮成綱の編集履歴

2015-01-11 10:39:01 バージョン

宇都宮成綱

うつのみやしげつな

宇都宮成綱は下野の戦国大名。

宇都宮成綱

概要

4代当主と17代当主が同名だが、4代当主は成綱(なりつな)で、17代当主は成綱(しげつな)である。後者の方が有名である。

宇都宮氏の中興の祖であり、家臣団を再編し、古河公方の擁立を狙い古河公方の内紛に介入したり、蘆名氏や佐竹氏などの近隣の大名と争い、勢力を大きく拡大させ、宇都宮氏の全盛期を築き上げ、当時、北関東最大の勢力であったといわれている。その革新的な思想、戦略、実力から、北関東の英傑といわれている。

生涯

宇都宮成綱(1468年 - 1516年12月1日)は下野の戦国大名で、宇都宮氏十七代当主。

宇都宮正綱が1477年に上野で陣没したために、弱冠10歳で家督を継ぐが、一門である武茂氏の重臣は成綱の家督継承に不満を抱き、幼君である成綱を軽視し、政治を専横する。その後、武茂氏の重臣らが、武茂六郎(成綱の実兄である武茂兼綱)に家督を継承させようと叛乱を起こすが、芳賀景高(芳賀高益の子)が単独で成綱を支援し、武力で鎮圧。古河公方足利成氏からも公認され武茂氏を圧伏し、実権を手にした。


芳賀景高を中心とした芳賀氏は成綱を頂点とした支配体制を強化するために支えていくが、景高の子である芳賀高勝の代になると、高勝はかつての武茂氏のように専横するようになる。この頃は高勝が成綱に代わって公事の免除を命じたりするだけでなく、当主である成綱発給の文書に高勝が連署するという主従関係の逆転まで生じていた。1506年に古河公方家の内紛が起こると成綱は足利高基を庇護し、内紛に介入した(足利高基の妻は宇都宮成綱の娘である)。勢力拡大及び家中内での権威の統一を狙い、婿の足利高基を支援し、古河公方に擁立することを企てた。しかし、高勝は高基の父足利政氏を支援したために家中は分裂状態になった。成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の討伐を決意する。1512年に芳賀高勝の謀略で嫡男の宇都宮忠綱に家督を継がせ、隠居させられてしまうが、この出来事の真意は成綱・忠綱父子による権威の統一のための巻き返し策の1つであり、その際に一門の塩谷氏に弟の塩谷孝綱を継がせたり、足利高基や姉を嫁がせて婚姻同盟を結んでいる結城政朝、奥州の伊達稙宗などと連絡を取り、足利政氏方の下那須氏への攻撃を要請したりなどの工作を行い反撃を開始する。成綱は宇都宮城で芳賀高勝を謀殺してクーデターを起こす。芳賀氏と全面対決し、2年間掛けてこの内乱を鎮圧した。この一連の内紛は永正の内訌といわれており、成綱が高勝を謀殺したことによって宇都宮錯乱と呼ばれる大きな内訌へと発展した。


勢力拡大にも積極的で1509年には蘆名・長沼連合軍を片角原の戦いで大勝し、塩原の地まで進出している。また、宇都宮錯乱の隙を狙って下野国に影響力を強めつつあった常陸国の戦国大名である佐竹義舜は、1514年7月に佐竹・岩城・両那須・白河結城などの2万の大軍で構成された連合軍を率いて下野国に侵攻しており、成綱は嫡男の忠綱を自らの名代として出陣させ、那須口で戦ったが敗北している(那須口の戦い)。敗れた忠綱は本拠の宇都宮城まで退くが、その際に連合軍の追撃を許してしまい、宇都宮の北口である竹林にまで迫ってきておりここで再び対峙した。今度は成綱が自ら総大将として出陣し、あらかじめ援軍を要請していた足利高基率いる足利軍や結城政朝率いる結城軍と協力して撃退に成功する(竹林の戦い)。その後、1516年6月に再び佐竹義舜が佐竹・岩城軍の連合軍で攻めてくる。縄釣りの戦い(下野国)と呼ばれるこの合戦では、事前に下那須氏当主の那須資房と不戦条約を結んだ成綱の計略と采配によって佐竹・岩城勢は総崩れし、大勝の結果となった。そして、敗走する佐竹軍を今度は成綱率いる宇都宮軍が追撃し、武茂庄の戦い(下野国)、依上の戦い(常陸国)、月居の戦い(常陸国)で大勝し、再起不能にするほどの大打撃を与え北関東の覇権争いに勝利した。また、古河公方の擁立にも成功し公方の威光も利用したりして勢力の拡大も努めている。武功や采配だけでなく外交能力も優れていたといわれ、断絶した一門の武茂氏、塩谷氏や叛乱因子の芳賀氏に子や兄弟を送り継がせることで勢力の安定化と北の守りを図った。また、娘を古河公方や結城氏に嫁がせることで勢力の拡大も図った。上那須氏の内紛に介入し、子の興綱を上那須氏の当主にして傘下に取り込もうと画策した(しかしこれは那須資房が危惧して早急に上下那須の統一を果たしたために失敗した)など、このようにして勢力を拡大させた宇都宮氏は当時、北関東最大の勢力だったといわれており、関東に与える影響力も大きかったと思われる。その後も勢力を拡大し続け、関東に覇を唱える可能性もあったが、1516年12月1日に宇都宮城で突然没する。享年49歳。


しかし、成綱の死後、嫡男忠綱による強硬な家中の強化や、壬生綱房壬生氏の出世、芳賀高経の処遇を巡って塩谷氏笠間氏などの不満を持つ一門や家臣との対立が起こった。さらに成綱の死後、南北朝時代の領土の確執が原因で結城政朝との関係が悪化し、その結果大永の内訌という大きな内訌が発生し、忠綱は猿山合戦で結城政朝に敗北後、芳賀高経ら家臣達の謀略によって宇都宮城から追放されてしまい、成綱の末子であるまだ幼い宇都宮興綱が新当主として擁立された。忠綱は宇都宮城に復帰するために鹿沼城の壬生綱房(後に離反する)ら忠綱派の将とともに宇都宮興綱と戦うが、復帰の夢は叶わず没してしまった。これによって芳賀高経壬生綱房ら宇都宮家中による政治の専横が続き、当主の権威は傀儡として地の底にまで下がり、三傑が歴史上の舞台に登場する戦国時代後期には大きく弱体化したしまったのであった。


関連タグ

戦国大名 関東勢


創作物における宇都宮成綱

ゲーム

信長の野望』シリーズ

成綱が没して約十年後、壬生綱房芳賀高経芳賀高孝らの謀略によって混乱し、勢力拡大どころではないくらいに弱体化した宇都宮氏の武将は、『信長の野望』シリーズでは、かなり過小評価をされている。

最盛期を築き、もう少し長く生きていれば関東に覇を唱える一大勢力にまで成長することも可能であった英主・成綱は『蒼天録 PK』のみに登場しているが、成綱もその影響を強く受けている。だが、それでも宇都宮氏の武将の中ではトップのステータスである。

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