芳賀景高
はがかげたか
概要
戦国時代における芳賀氏の祖とされ、芳賀氏の全盛期を築いた。芳賀氏内部での権力争いに勝ち残り、芳賀高益の嫡男を廃して自ら芳賀氏の家督を継承した実力派の武将。10歳前後と幼くして家督を継いだ宇都宮成綱を生涯補佐し、主に奉行人として活躍した。優れた内政手腕を駆使して最終的には宇都宮氏No.2の地位にまで上り詰めた。宇都宮家中において景高の影響力は絶大であり、没落していた宇都宮氏の勢威の回復に大きく貢献した。また、幼い成綱の統治を影から支え続けた。
生涯
芳賀景高(生没年不詳)は下野の戦国武将で、芳賀氏当主。宇都宮家中宿老。
芳賀氏内部での政争に勝利し、芳賀氏を継いだ。1477年に主君の宇都宮正綱が没すると、景高は単独で(※但し芳賀高益も協力したという説もある)宇都宮成綱を支援し、新当主として擁立した。
この頃、宇都宮氏の内部は芳賀氏と武茂氏(宇都宮氏の有力庶流)は対立しており、景高の支持を得て当主になった成綱が当主になることに不満を持っていた。武茂家臣は正綱の二男(※長男説もある)の武茂兼綱を擁立して成綱と対立する。景高・成綱は古河公方足利成氏の支援を得た上で穏便に事を済まそうとしたが、武茂氏側が反乱を起こし武力衝突にまで発展した。景高・成綱は武茂氏を武力で討ち破り、さらに成氏に成綱を新当主として公認させ、武茂氏を圧伏させることによって成綱による支配体制の基盤を安定化させた。
景高は武茂氏との政争に勝利し、武茂氏は宇都宮家中内の権力中枢から没落した。景高は特に奉行人として内政手腕を発揮し、成綱を支えた。結果的に景高の地位は瞬く間に当主の成綱を脅かすほどのものとなり、成高寺への寺領を寄進した際には当主の成綱との連署をしており、影の当主とも言えるほどにまでなっていった。しかし、景高は当主である成綱に反抗することなく、宇都宮氏の権威の回復に努めた。
16世紀初頭に没したという。景高の後を継いだのは子の芳賀高勝(※養子説がある)である。しかし、高勝の態度は年々増長したために後に当主の成綱と対立し、永正の内訌という内乱になった。さらには宇都宮錯乱という大きな内乱に発展した。