二式大艇
にしきだいてい
ザ・日本の四発機
二式大艇は日本では珍しい四発機である。
九七式飛行艇の後継として開発されており、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン条約で制限された艦隊戦力を補う役目も負っている。
アメリカ軍によるコードネームは「エミリー」。
97式の後継
二式大艇は九七式飛行艇の後継として開発された。
要求仕様は・・・
・最大速度445km/h以上
・巡航速度296km/h以上
・航続距離7400km(偵察状態)
・防御機銃に20mm機銃5門を装備
という風なものだった。
これにはもちろん条約で規制された海軍戦力を補う意図もあり、
実際に爆撃任務を行った事もある。(実例:K作戦)
開発は1938年(昭和13年)の『十三試大型飛行艇』に始まっており、
設計には前作、97式飛行艇開発スタッフが再結集している。
開発にあたっての最優先事項は航続距離であり、
ただでさえ「着水する」というハンデを背負った飛行艇とあって開発は難航……
……するどころか、むしろ皆張り切って設計に取り掛かった。
これは97式飛行艇の成功で自信を付けた、という事である。
97式で得られたノウハウをふんだんに投入しており、
さらに強力なエンジン(「火星」エンジン)や新素材(超々ジュラルミン)も盛り込んだ。
こうして飛行艇としては驚異的な高性能となり、
イギリスの航空評論家ウィリアム・グリーンをして「恐るべき」とまで言わしめた。
脅威の飛行艇
実際、敵からは一式陸上攻撃機よりも危険視されており、
索敵任務で「はちあわせ」した際などはまさに危険な存在である。
同じく索敵のB-25やB-17、PB4Y-2(B-24をベースにした海軍向け哨戒機)には恐れられた。
通常ならお互い逃げるところなのに、二式大艇の場合はむしろ追撃してくる事があったのだ。
しかも防御機銃は20mm機銃5門と強力であり、
事によっては撃ち負けて、撃墜される危険が大きかった。
実際に撃墜記録もあり、
搭乗員からは『PBYなら追いかける、B-17は対等に相手できる』と評価された。
また、防弾もしっかりしており、1943年11月にはP-38の3機と40分交戦して1機を撃退、
その上でエンジン2基停止・230箇所被弾・1名負傷という状態で帰還している。(wiki)
このように強力な飛行艇ではあったが、
大戦後期になると索敵中に行方不明・未帰還となる事例が頻発している。
いかな重防御と言えど、必ず限界はあるものである。
栄光の陰で
以上のように、飛行艇としては驚異的なまでの高性能を誇る二式大艇だが、
それは『あくまで飛行艇としては』という但し書きが付く。
飛行艇は「着水しなければならない」という制約が付く以上、
通常の爆撃機などにハンデを背負っているのだ。
活躍の陰で目立たないが、水漏れとの戦いも繰り広げられた。
当時の日本では完全な防水までは出来ず、日常整備に加えての底の水汲みは欠かせなかった。
『恐るべき飛行艇』
最大速度は12型で465km/h。
対するB-17は426km/h(B-17G)、PB4Y-2では400km/hと、決して負けてはいない。
さらに最大24時間近い連続飛行が可能と、まさにバケモノ級。
また、防御機銃は機首・胴体左右・胴体上・胴体最後尾の5か所に設けられており、
全て20mm機銃が装備されている。
他にも7.7mm機銃を装備する事も出来るが、付ける事はまず無かったようだ。
(コクピット左右なので邪魔になる)
また爆弾も2t近く積載可能。
他にも自動消火装置などの防火装備もあったようで、やはり飛行艇としては驚異的である。
だが機体底部に銃座を設ける事はできず、防御には限界があった。
また、相手が戦闘機だった場合なども危険であり、
多くの場合は機動性に翻弄された末に撃墜された。
恐るべき事は飛行艇でありながら爆撃機にも引けを取らない性能だった事だが、
濃厚になる敗色を覆すまでは至らず、すべては滅びの運命へと殉じていった。
余談だが、ベッドもトイレも冷蔵庫も完備されており、その気になれば半日以上空の上で生活することも可能だったとか。
つくづくオーバースペックな飛行艇である。
その後の飛行艇へ
その後の捜索・救難任務はヘリコプターにとって代わられた。
日本は広大な排他的経済水域(EEZ)を持っており、
これは対潜哨戒機PS-1をベースに開発されており、もちろん着水能力がある。
日本の広大なEEZは他の国にも例が無く、早い展開能力(スピード)と航続距離が見直されたのだ。
(ヘリコプターでは無理がある、という事でもある)
二式大艇の設計主務者、菊原静男は元になったPS-1を設計しており、
二式大艇で培われた技術も盛り込まれ設計されたPS-1やUS-1の容貌には何処となく二式大艇の面影が残っている。
21世紀になっても改良型のUS-2が登場しており、