解説
鎌倉時代初期に製作された、刀工・粟田口国綱(あわたぐちくにつな)の傑作。
刃長78.2cm、反り3.2cmで、大きく反り返った「輪反り」と呼ばれる刃が特徴。
また拵え(柄や鞘のつくり)が「革包太刀」(かわづつみたち/柄や鞘を革で覆って黒塗りと漆で仕上げ、錦糸や蒔絵で飾った工法)の典型とされ、この様式を「鬼丸拵え」とも称する。
のちに「天下五剣」の一つに列せられた。
現在は皇室所蔵の御物(ぎょぶつ)であり、一般公開の機会に乏しい。
逸話
鬼切り伝説
時政の夢枕には鬼がやって来て、夢の中で時政を苦しめていた。
どうにかして鬼を祓おうとするがことごとく失敗し、家臣一同は頭を抱えてしまう。
そんな中、時政の夢枕に一人の老人が姿を現し――
「私はあなたの太刀、国綱です。ですが埃と錆で抜けなくなり、あなたを助けられません」
…と言葉を残していった。
これを聞いた時政は、夢から覚めると早速国綱の手入れを命じ、手入れの終わった国綱を抜き身で柱に立て掛けた。すると太刀は倒れ、火鉢の台の彫物を切り落とした。
彫物は銀で出来た小鬼で、国綱はこの小鬼の首を落としてみせたのだった。
これを機に時政は快復し、国綱に「鬼丸」の号を授けたという。
なお逸話の本筋に隠れがちではあるが、銀製品を自然落下の惰力だけでサックリ斬り落とすという異常な切れ味も注目に値する。
本阿弥家との関係
鎌倉幕府の倒幕により、国綱は新田義貞の手に渡り、さらに足利尊氏へと渡った。
そこから時代を経て、足利義昭から織田信長(※1)、そして豊臣秀吉へと渡る。
このとき秀吉は国綱を刀剣鑑定士として名高い本阿弥光徳(ほんあみこうとく)に預け、保管させることにした。
また時代が下って江戸幕府が成立した後、国綱は徳川家の所蔵となったが、管理はそのまま本阿弥家に任された。のちに後水尾天皇に皇太子がご生誕され、そのお祝いに国綱が献上されることになる。しかし皇太子が若くして崩御したため、国綱は「不吉な刀」と忌避され、本阿弥家に差し戻されてしまう。
以後、八代将軍・徳川吉宗が持参させたという記録もあるが、保管は本阿弥家に委ね続けた。
そして明治時代、江戸幕府の倒幕に伴い、徳川の様々な所蔵品が散っていく中、国綱の所有権がはっきりしないことが判明し、本阿弥家も国綱の処遇に困り果てていた。
そこで本阿弥家は新政府に届け出を出し、新政府は「後水尾天皇に献上するも徳川家に差し戻されたものを保管していた」として、明治天皇の元に寄せられることになった。
※1.一説には秀吉に直接渡ったともされる。
関連タグ
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