安徳天皇
あんとくてんのう
生涯
生後間もなく皇太子になり、治承4年(1180年)にわずか2歳で即位。当時、院政を敷いた後白河法皇率いる朝廷と清盛率いる平家一門は対立状態となり、治承3年(1179年)に清盛が政変を起こして法皇を幽閉。そんな中での即位となり、高倉帝が上皇として院政を敷き、実権を握った清盛が福原に遷都した。(治承3年の政変)
しかし、東国で挙兵した源氏を中心とした勢力が優勢となり、越前(福井)で源義仲(木曽義仲)が上洛を目指し倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる軍を敗ると、平家は安徳帝と三種の神器を携えて都から西国へと落ち延びていくこととなった。後白河法皇の命により義仲軍を降した源範頼・義経兄弟の率いる軍は都落ちした平家追討の命を受け、西国へと攻め降っていく。安徳帝を擁する平家軍は連戦連敗し、瀬戸内海を彷徨い、次第に壇ノ浦へと追い詰められていく。
寿永4年3月、壇ノ浦の戦いにおいて、平家軍は源義経率いる源氏軍に劣勢となり、最後を迎えようとしていた。最期を覚悟した清盛の妻・二位尼は安徳帝と神器を抱き上げた。「私をどこへ連れて行くのか」と安徳帝が聞くと、二位尼は「これから極楽浄土へ行く」と答え、「浪の下にも都があります」と慰めると、二人は海中へ身を投じた。
数え年8歳という歴代最年少の天皇として安徳帝は崩御した。
現在、安徳帝の御陵は山口県の赤間神宮にあり、もともと源頼朝の命で安徳帝の怨霊鎮撫のために建てられた阿弥陀寺であった。
福岡県の久留米市に総本社がある水天宮は安徳帝を祭神として祀り、水や子供にまつわる守護の神として全国で厚く信仰されている。
様々な作品に登場する安徳帝の髪型は、残されている肖像画から禿頭(おかっぱ)で描かれていることが多かったが、時代考証が進んだことから角髪で描かれるようになっている。
伝説
『平家物語』では、船に乗る際の衣装と、入水する際の御召し物が違うため、安徳帝は平家の落人とともに生き延びたとする伝説が生まれ、各地に「安徳帝生存伝説」を分布させた。また昭和の頃に安徳帝の皇胤だと名乗る者もいた。
入水した時に神器の一つ・天叢雲剣は永遠に失われたと言われ、『源平盛衰記』によれば安徳帝はヤマタノオロチの生まれ変わりで、もともと大蛇は龍宮の竜王の弟だという。兄と喧嘩して剣と共に家出し、出雲でスサノオに剣を奪われ、それ以来剣の奪い返しを続け、天皇として生まれ変わって、天下に騒乱を起こし、ついに剣は龍宮に還えったのだとしている。
『平家物語』には安徳帝ご出生の折「男の沽券にかかわるようなケアレスミス」があったと語られるため実は女帝、すなわち女子だったのではないかとされ、物語や演劇では度々その点を題材にした作品がある。