その前後のアルゼンチン
第二次世界大戦を中立で過ごし、また連合国へ輸出により莫大な外貨を得たアルゼンチン軍事独裁政権は重工業を整備し、のちに大衆主義にも傾倒していったが、これは外貨を使い果たすとともに終わってしまう。
1955年にはクーデターが起き、この混乱でせっかく整備した重工業化も停滞し、1962年にはこうした不満を背景に別のクーデター政権が成立するが、同様の動きは1966年や1969年にも起き、アルゼンチンはすっかり政情不安国家となってしまう。その後もこうしたクーデター政権同士による政権交代は続く。(ただし、これは何もアルゼンチンだけの話ではない。南米はもちろん、アジアでも普通のことだった)
1976年、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍率いるクーデター政権が成立したが、その後は経済政策で行き詰まり、1982年には以前より領有権問題で揺れていたマルビナス諸島(イギリス名:フォークランド諸島)を占領して政権浮揚に繋げようとした。
イギリス内政の混乱や、またマルビナス諸島の経済不振にも乗じた動きではあったが、時の首相マーガレット・サッチャーによる回答は『海軍・海兵隊による奪還』という、強固なものであった・・・
プカラと政情不安
こうした国内の動きから要求されたので、主に想定された敵は「外国による大規模な侵攻軍」ではなく、「国内反政府組織による反乱軍」とされたのはいかにも当然のことだった。
最初の試作機AX-2は1969年に初飛行し、1974年からは生産機が続々と配備されている。1976年にはさっそく北西部の「人民革命軍」鎮圧に投入され、良好な戦果を挙げたことから空軍はさらに追加発注を行い、この一部は輸出分にも廻されたが、総生産数は148機となった。輸出先はウルグアイやコロンビア、スリランカで、それぞれ少数が納入されている。
当時、南米は反政府組織や麻薬組織の跳梁が激しく、スリランカもまたタミル人組織による反政府運動が盛んに行われている状況だったから、このように簡便ながら航空戦力を持つことには一応の意義はあった。
しかし、他のCOIN機の場合でもそうだったように、『ヘリコプターを揃えた方が使いでに優れる』とされ、コロンビアはヘリコプター部隊の増強でこれに替え、またスリランカでもAB212の本格的な整備治具を揃えるなどしてヘリコプターの運用体制を整えていった。
スリランカとジェット戦闘機
なお、イメージには乏しいが、スリランカにも「マッハ2級ジェット戦闘機」を配備している時期はあった。これは中国製のJ-7で、初期型相当機を7機(単座型5機・複座型2機)輸入し、配備していたのだが、タミル人ゲリラとの戦いにこのようなものは全く無用であり、早々に格納庫でホコリを被ることとなってしまった。更新するかわりにAB212の整備治具が導入されたのは先のとおり。
プカラの特徴と性能
IA58「プカラ」は対地センサーの類は全く搭載しておらず、直接目視に頼った攻撃を行うCOIN機の一種である。最大速度約500km/h、巡航速度は480km/hほど。高度9700mまで上昇できる。
防弾
直接攻撃するということは、もちろん敵の反撃も想定されるべきであり、このプカラではコクピット底面を中心に部分的な装甲化が施されている。もちろんキャノピーも小銃弾に備えた防弾仕様であり、歩兵の対空射撃くらいは十分耐えられるように設計されている。
エンジン
エンジンはフランス製で、チュルボメカ社の「アスタズー」ターボプロップエンジン2基を動力源に備える。小型のエンジンだが、プカラ程の機には十分となっている。また双発ということはそれなりの余力も備えており、被弾しても片エンジンさえ健在なら飛行を継続できる。
武装
機首に7.62mm機銃4門(各900発)と20mm機銃2門(各270発)を備える。
うち7.62mm機銃はコクピットの左右に、20mm機銃は前脚の左右に取り付けられている。
その他にも胴体・主翼下にハードポイントが設けられており、爆弾やロケット弾といった簡単な部類の兵装を最大約1.5tまで搭載することができる。これらの搭載もまた低翼配置なので、必要なら担ぎ上げるだけで装備できるようになっている。もちろん普段は専用のリフトを使うのだが。
離着陸性能
離陸距離は700m~1400m、着陸距離は605mとなっており、これはOV-10やOV-1のようなSTOL性能が求められていない事による。(両機とも離着陸は400m以内で可能)
だが着陸装置は整地されていない簡易飛行場にも耐えられる頑丈なもので、整備も最低限の設備で十分なよう整備ハッチ位置なども工夫されている。例として7.62㎜・20mm両機銃は非常に手の届きやすい位置に据えられており、エンジンもすべてに手が届く高さに装備されていることが一目でわかるだろう。
コクピット
前後席とも非常に視界が良くなるように設計された。(もちろん前席の方が良いのだが)
これはすべてを目視視界に頼ったCOIN機には当然求められる点であり、生命線である。
その秘密は大きく下向きにされた機首で、レーダー等の電子機器が無いこともあって前席を先端ぎりぎりに設けることができた。代わって後席はかなり高い位置にあり、このために拡げられた胴体は燃料タンクを重心位置に設置するのに十分なスペースを稼ぎ出した。
「女王の軍勢」とプカラ
セントジョージア侵攻
1982年、アルゼンチンのガルチェリ政権は内政不振からくる不満の矛先を逸らすため、マルビナス諸島の領有権問題を利用する。だがこれは途中から操作不能なまでに過熱してしまい、1982年3月19日、サウスジョージア島にアルゼンチン海軍輸送艦が無断で接舷し、「捕鯨工場の解体」(実際に廃業20年の工場跡があった)を名目に物資の揚陸を始めた。
物資揚陸が終わった22日、この輸送艦は物資の見張り要員数名を残してサウスジョージア島を後にするが、これは実は海兵隊の先遣隊であり、25日深夜には続く輸送艦が海兵隊500名(2個中隊ほど)とヘリコプター2機などを揚陸して港を占拠する。
開かれる戦端
この動きと前後し、3月末からは「ウルグアイ海軍との共同演習のため」と称してアルゼンチン海軍の活動も活発化。虎の子の空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」を旗艦とした艦隊がマルビナス諸島に向けて発進した。
緊張は高まっていたが、イギリス側はまさか本気で侵攻作戦を行うとは想定しておらず、フォークランド駐留部隊に警戒態勢が敷かれるのは、本格的作戦開始の6時間前だった。この1日午後時点での駐留部隊勢力は海兵隊79名にその他水兵のみ、戦闘艦はおろか航空機なし戦闘車両なしという、まさに裸同然の防備であった。
こうして同日、アルゼンチン海兵隊はサウスジョージア島侵攻を開始。『無い無いづくし』のイギリス海兵隊も必死の抵抗を見せたが、2日には弾薬が尽きてすべての戦闘を終了。最後まで抵抗を続けていた23名をふくめて海兵隊員は全員捕虜にされ、ウルグアイ経由で本国送還されることとなった。
なお、占領は無血で済ませるよう注意されており、イギリス側は負傷者1名を出しただけである。
フォークランドの戦い その1
翌4月3日、サッチャー首相は奪還のための艦隊編成を指示。とうぜん大激怒である。
これを受けて空母「インヴィンシブル」「ハーミーズ」は各種護衛艦23隻と揚陸艦8隻、それに支援艦や徴用貨物船16隻の計47隻を従え、一路フォークランドへと発進した。4月18日のことだった。
他にも潜水艦が水中から護衛するほか、空軍も爆撃機投入に備えて改造に取り掛かった。
たった1機をフォークランドに到達させるため、空中給油機にも複雑な運航スケジュールが組まれることとなる。
その後4月25日にはほぼ「もぬけの殻」となっていたサウスジョージア島を奪還。フォークランド奪還に弾みをつけることになる。が・・・
フォークランドの戦い その2
東フォークランド島にはスタンレー・グースグリーン両飛行場があり、ここはアルゼンチン空軍が駐留して頑強な抵抗を見せるものとして重点目標とされた。5月1日、ここにも奪還作戦が展開され、まずは空軍のヴァルカン爆撃機によるスタンレー空襲で幕を開けた。
続いて空母から発進したハリアーが戦闘を開始し、グースグリーン飛行場では合わせて5機のプカラが破壊された。だが、ヴァルカンによる空襲は狙いが不正確であり、この後も数度にわたって空襲が繰り返されたが、いずれも決定打を与えるに満たなかった。