FMA IA-58 Pucará
1960年代までの国内政情不安を背景にアルゼンチン航空機製造工廠(Fábrica Argentina de Aviones)により開発され、国内反政府組織の掃討に投入される一方、フォークランド紛争にも参加している。
ちなみに「プカラ」とはペルーに築かれたインカの城塞のこと。
その前後のアルゼンチン
第二次世界大戦を中立で過ごし、また連合国へ輸出により莫大な外貨を得たアルゼンチン軍事独裁政権は重工業を整備し、のちに大衆主義にも傾倒していったが、これは外貨を使い果たすとともに終わってしまう。
1955年にはクーデターが起き、この混乱でせっかく整備した重工業化も停滞し、1962年にはこうした不満を背景に別のクーデター政権が成立するが、同様の動きは1966年や1969年にも起き、アルゼンチンはすっかり政情不安国家となってしまう。その後もこうしたクーデター政権同士による政権交代は続く。(ただし、これは何もアルゼンチンだけの話ではない。南米はもちろん、アジアでも普通のことだった)
1976年、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍率いるクーデター政権が成立したが、その後は経済政策で行き詰まり、1982年には以前より領有権問題で揺れていたマルビナス諸島(イギリス名:フォークランド諸島)を占領して政権浮揚に繋げようとした。
イギリス内政の混乱や、またマルビナス諸島の経済不振にも乗じた動きではあったが、時の首相マーガレット・サッチャーによる回答は『海軍・海兵隊による奪還』という、強固なものであった。
プカラと政情不安
こうした国内の動きから要求されたので、主に想定された敵は「外国による大規模な侵攻軍」ではなく、「国内反政府組織による反乱軍」とされたのはいかにも当然のことだった。
最初の試作機AX-2は1969年に初飛行し、1974年からは生産機が続々と配備されている。1976年にはさっそく北西部の「人民革命軍」鎮圧に投入され、良好な戦果を挙げたことから空軍はさらに追加発注を行い、この一部は輸出分にも廻されたが、総生産数は148機となった。輸出先はウルグアイやコロンビア、スリランカで、それぞれ少数が納入されている。
当時、南米は反政府組織や麻薬組織の跳梁が激しく、スリランカもまたタミル人組織による反政府運動が盛んに行われている状況だったから、このように簡便ながら航空戦力を持つことには一応の意義はあった。
しかし、他のCOIN機の場合でもそうだったように、『ヘリコプターを揃えた方が使いでに優れる』とされ、コロンビアはヘリコプター部隊の増強でこれに替え、またスリランカでもAB212の本格的な整備治具を揃えるなどしてヘリコプターの運用体制を整えていった。
スリランカとジェット戦闘機
なお、イメージには乏しいが、スリランカにも「マッハ2級ジェット戦闘機」を配備している時期はあった。これは中国製のJ-7で、初期型相当機を7機(単座型5機・複座型2機)輸入し、配備していたのだが、タミル人ゲリラとの戦いにこのようなものは全く無用であり、早々に格納庫でホコリを被ることとなってしまった。更新するかわりにAB212の整備治具が導入されたのは先のとおり。
プカラの特徴と性能
IA58「プカラ」は対地センサーの類は全く搭載しておらず、直接目視に頼った攻撃を行うCOIN機の一種である。
最大速度約500km/h、巡航速度は480km/hほど。高度9,700mまで上昇できる。
防弾
直接攻撃するということは、もちろん敵の反撃も想定されるべきであり、このプカラではコクピット底面を中心に部分的な装甲化が施されている。
もちろんキャノピーも小銃弾に備えた防弾仕様であり、歩兵の対空射撃くらいは十分耐えられるように設計されている。
エンジン
エンジンはフランス製で、チュルボメカ社の「アスタズー」ターボプロップエンジン2基を動力源に備える。小型のエンジンだが、プカラ程の機には十分となっている。また双発ということはそれなりの余力も備えており、被弾しても片エンジンさえ健在なら飛行を継続できる。
武装
機首に7.62mm機銃4門(各900発)と20mm機銃2門(各270発)を備える。
うち7.62mm機銃はコクピットの左右に、20mm機銃は前脚の左右に取り付けられている。
その他にも胴体・主翼下にハードポイントが設けられており、爆弾やロケット弾といった簡単な部類の兵装を最大約1.5tまで搭載することができる。これらの搭載もまた低翼配置なので、必要なら担ぎ上げるだけで装備できるようになっている。もちろん普段は専用のリフトを使うのだが。
離着陸性能
離陸距離は700m~1400m、着陸距離は605mとなっており、これはOV-10やOV-1のようなSTOL性能が求められていない事による。(両機とも離着陸は400m以内で可能)
だが着陸装置は整地されていない簡易飛行場にも耐えられる頑丈なもので、整備も最低限の設備で十分なよう整備ハッチ位置なども工夫されている。例として7.62mm・20mm両機銃は非常に手の届きやすい位置に据えられており、エンジンもすべてに手が届く高さに装備されていることが一目でわかることだろう。
コクピット
前後席とも非常に視界が良くなるように設計された。(もちろん前席の方が良いのだが)
これはすべてを目視視界に頼ったCOIN機には当然求められる点であり、生命線である。
その秘密は大きく下向きにされた機首で、レーダー等の電子機器が無いこともあって前席を先端ぎりぎりに設けることができた。代わって後席はかなり高い位置にあり、このために拡げられた胴体は燃料タンクを重心位置に設置するのに十分なスペースを稼ぎ出した。
「女王の軍勢」とプカラ
アルゼンチンおよび輸出先でいくつか実戦を経験しているが、やはり一番有名なのはフォークランド紛争での活躍だろう。この紛争について振り返ってみよう。
セントジョージア侵攻
1982年、アルゼンチンのガルチェリ政権は内政不振からくる不満の矛先を逸らすため、マルビナス諸島の領有権問題を利用する。だがこれは途中から操作不能なまでに過熱してしまい、1982年3月19日、サウスジョージア島にアルゼンチン海軍輸送艦が無断で接舷し、「捕鯨工場の解体」(実際に廃業20年の工場跡があった)を名目に物資の揚陸を始めた。
物資揚陸が終わった22日、この輸送艦は物資の見張り要員数名を残してサウスジョージア島を後にするが、これは実は海兵隊の先遣隊であり、この誘導により25日深夜には続く輸送艦が海兵隊500名(2個中隊ほど)とヘリコプター2機などを揚陸して港を占拠する。
開かれる戦端
この動きと前後し、3月末からは「ウルグアイ海軍との共同演習のため」と称してアルゼンチン海軍の活動も活発化。虎の子の空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」を旗艦とした艦隊がマルビナス諸島に向けて発進した。
緊張は高まっていたが、イギリス側はまさか本気で侵攻作戦を行うとは想定しておらず、フォークランド駐留部隊に警戒態勢が敷かれるのは、本格的作戦開始の6時間前だった。この1日午後時点での駐留部隊勢力は海兵隊79名にその他水兵のみ、戦闘艦はおろか航空機なし戦闘車両なしという、まさに裸同然の防備であった。
こうして同日、アルゼンチン海兵隊はサウスジョージア島侵攻を開始。『無い無いづくし』のイギリス海兵隊も必死の抵抗を見せたが、2日には弾薬が尽きてすべての戦闘を終了。最後まで抵抗を続けていた23名をふくめて海兵隊員は全員捕虜にされ、ウルグアイ経由で本国送還されることとなった。
なお、占領は無血で済ませるよう注意されており、イギリス側は負傷者1名を出しただけであるが、アルゼンチン側では1名が戦死した。
フォークランドの戦い:サウスジョージア島を奪還せよ!
翌4月3日、サッチャー首相は奪還のための艦隊編成を指示。とうぜん大激怒である。
これを受けて空母「HMSインヴィンシブル」「HMSハーミーズ」は各種護衛艦23隻と揚陸艦8隻、それに支援艦や徴用貨物船16隻の計47隻を従え、一路フォークランドへと発進した。4月18日のことだった。
他にも潜水艦が水中から護衛するほか、空軍も爆撃機投入に備えて改造に取り掛かった。
たった1機をフォークランドに到達させるため、空中給油機にも複雑な運航スケジュールが組まれることとなる。
その後4月25日にはほぼ「もぬけの殻」となっていたサウスジョージア島を奪還。フォークランド奪還に弾みをつけることになる。が・・・
フォークランドの戦い:飛行場制圧作戦
東フォークランド島にはスタンレー・グースグリーン両飛行場があり、ここはアルゼンチン空軍が駐留して頑強な抵抗を見せるものとして重点目標とされた。5月1日、ここにも奪還作戦が展開され、まずは空軍のバルカン爆撃機によるスタンレー空襲で幕を開けた。
続いて空母から発進したハリアーが戦闘を開始し、グースグリーン飛行場では合わせて5機のプカラが破壊された。だが、バルカンによる空襲は初回こそ投下1、2発目が滑走路中央に命中して成功を収めたが、以降は防空設備の充実により爆弾投下高度を上げざるを得なくなった。この2回目の空襲では爆弾はすべて狙いを外し、以降は対空レーダーつぶしに目的を変更することになった。対空レーダー潰しの空襲は2回行われ、成功を収めたものの、2回目にして故障によりブラジルに緊急着陸。機体は戦争終結まで留め置かれた。ちなみに乗員は早々に釈放されたが、機の留置が解除されたらすぐに乗って戻れるように帰国せずに居残った。
バルカンによる空襲は、首都ブエノスアイレス被爆の危険性を明らかにさせ、空軍戦闘機をこの周辺にも配置せざるを得ないようにさせた。もちろん、その分フォークランド方面は手薄になったわけで、空襲の意義は実際の戦果以上のものがあったと言えるだろう。
フォークランドの戦い:アルゼンチン艦隊の苦悩
これに並ぶ4月30日、アルゼンチンは艦隊を三手に分け、島影を利用してイギリス艦隊を挟み撃ちにする作戦を立てていた。が、頼りの空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」は慢性的な機関不調のせいで本来の速力を出せず、艦載機を武装させての発進が不可能となっていた。
また5月2日には対地支援で絶大な威力を発揮するはずだった巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」が原子力潜水艦「コンカラー」による雷撃で艦首を寸断、前進中だったので断面からは凄まじい勢いで浸水が始まった。命中後3分で艦は轟沈し、乗組員の3割は脱出できずに艦と運命をともにした。
フォークランド紛争期間中でも、一度にこれほど多くの人命が失われた事はない。衝撃を受けたアルゼンチン海軍の活動は低調なものとなる。アルゼンチン海軍は旗艦を失い、将兵らの士気も大幅に下がった。
フォークランドの戦い:空母機動艦隊の戦い
5月4日、海軍航空隊のシュペルエタンダールの2機は対艦ミサイル「エグゾセ」を発射し、これが駆逐艦「HMSシェフィールド」に命中した。幸い弾頭は不発だったものの、同時に発生した火災により戦力を喪失、のちに悪天候により沈没した。
このほか10日までアルゼンチン海軍潜水艦による雷撃をたびたび受け、このことは艦隊周辺の安全確保を必要とし、空母の対フォークランド活動もまた低調なものになった。アルゼンチン空海軍による空襲も繰り返されるが、イギリス海軍側もまた上陸に向けて地盤を確実に固めていく。
また、5月23日には「HMSハーミーズ」を狙ったエグゾセがチャフで狙いをそらされ、目標の再捕捉のために迷走した末に臨時空母「アトランティック・コンベアー」にロックオン、直撃した。貨物船は火災を起して大破し、30日に沈没。乗員12名が死亡した。ハリアーはすべて空母へ移送し無事だったものの、残存していたウェセックスやチヌーク(ブラボー・パパ、ブラボー・マイク等)といったヘリコプターは予備部品や工具の類も含めてすべて失われる。
このとき唯一飛行中で無事だったコード「BN(ブラボー・ノベンバー)」機は、無事だった整備員たち必死の努力のかいあって、戦争中ただ1機の輸送ヘリコプターとして八面六臂の活躍をするのだが、それはまた別の話である。なお、この機は戦争のその後も生き残り続け、イラク戦争やアフガン紛争にも参加した経歴があり、現在はHC.4仕様に改造されながらも現役を務めている。ロンドンの空軍博物館では特集コーナーも設けられている。
同日に「HMSアンテロープ」もA-4Bスカイホークの攻撃を受け、航空爆弾を被弾するも運良く不発や爆発することなく貫通したために被害は軽微であった。
後退後に館内に残った二発の不発弾の処理をするも失敗し爆発、火災により弾薬に引火、翌24日に沈没した。
フォークランドの戦い:「いいとこなし!」
こうして5月14日にはベブル島にSASやSBSで編成された先遣隊が上陸し、飛行場にあったプカラやターボメンターといったCOIN機を破壊した。小規模ながらも激しい銃撃戦となったが、なにぶんお互いに少人数だったので翌日には戦いは終わることになる。21日には東フォークランド島への上陸作戦が開始され、こちらはほぼ抵抗のないまま橋頭堡を確保した。
しかし、こうして艦隊が島に近づいたチャンスを逃すアルゼンチンでは無かった。
空軍・海軍両航空隊はすぐさま艦隊を強襲し、21日からの4日間で4隻の艦艇を撃沈したほか、数隻にも被害を与えている。結果的に4隻もの艦艇を失った失態を、イギリスのマスコミは『マレー沖海戦以来の失態』と非難した。
もちろんアルゼンチン側も損害は多かったが、この後もポートスタンレー陥落まで果敢な襲撃を繰り返すことになる。
フォークランドの戦い:デッド・エンド
だが、こうした攻撃にもめげず、陸軍・海兵隊は確実に足場を固めていった。
東フォークランド島ポートスタンレーへの攻撃は6月13日に開始される。アルゼンチン側の士気は低くなっていたが、一部の精鋭兵は頑強な抵抗を見せる。
が、翌6月14日正午、アルゼンチン側防衛隊はイギリスに投降することとなり、こうしてフォークランドの戦いは終わった。
プカラの活躍
プカラはスタンレー・グースグリーン・ベブル全ての飛行場に配備されていたが、携帯型地対空ミサイル(ブローパイプを含む)などの対空火器により大損害を出してしまう。(歩兵の小火器による対空射撃により小破、放棄された機体もあった)
また、5月14日にもSASにより駐機していたところを爆破されたり、どうにも活躍はパッとしない。
唯一の戦果もウエストランド「スカウト」軽汎用ヘリコプターを1機撃墜したのみで、本格的に装備を整えた正規軍を相手にするにはやはり力不足だった模様。チャフ・フレア散布装置や赤外線ジャマーなどの妨害手段を持たないCOIN機は、この戦争で脆弱性や限界を明らかにするところとなった。
この戦訓もあり、現在配備が進められているA-29ではチャフ・フレア散布装置はもちろん、赤外線かく乱装置など各種ジャマーを装備し、コクピットも高度にデジタル化されて別物同然にまで強化した機となっている。まあ、それでも鉛弾にはどうしようもないのだろうから、そこが不安ではあるのだが。
プカラの現在
アルゼンチンで残存機の運用が続けられている他、ウルグアイでも運用されている(?)ようだ。
これまで20mm機銃をフランス製30mm機銃に換装する案や、単座に改修して近代化する案も出されたが実現することは無かった。主に資金難のせいとされているが、わざわざ改修してさらに予算を支出するほどの価値が無いと判断されたという事でもあるだろう。
対ゲリラに投入された事もあったが、9K32(NATO名称:SA-7「ストレラ」)等の携行型地対空ミサイルや機関砲と言った対空火器を持つ勢力を相手取るには力不足であり、更には小型民間機改造機にすら撃墜されてしまう有様であった。(スリランカはLTTEへの対抗策としてA-10攻撃機の購入を打診するも不許可となり、中古のMiG-29を購入した)
参考資料
文林道 世界の傑作機 no.72「アブロ・バルカン」