概要
実名は片倉景綱(かげつな)であり、小十郎という名は通称として名乗っていた。
その後、片倉氏代々の当主が踏襲して名乗るようになった。
政宗の近習で、いくさ場では軍師的存在として智才で同家を支えたとされる。
「智の片倉景綱」と評され、武勇で知られる「武の伊達成実」と並び「伊達の双璧」と呼ばれた。
因みに1615年の大阪夏の陣の後に、真田信繁(真田幸村)の遺児を保護したのは景綱の息子…つまり二代目片倉小十郎(片倉重長)である。
生涯
弘治3年(1557年)、米沢成島八幡神社の神職・片倉景重の次男として生まれる。
両親とは幼いころに死別し、20歳ほど齢の離れた異母姉・喜多に養育され、文武両道として知られる彼女から様々な知識を授かり育った。喜多はとくに兵書を好み、これを講じたことが後に軍師として智謀を振るう小十郎に強い影響を与えたとも考えられる。
永禄10年(1567年)、当時の主君である輝宗に嫡子・政宗が生まれると姉の喜多は政宗の乳母を拝命する。小十郎は、天正年間初期(1573年~)に起こった伊達領米沢での大火事の際の活躍が認められ、輝宗の小姓となり、後に遠藤基信の推挙により政宗の近侍となる。
以降は政宗率いる伊達家をその智才で支えた。
戰場では軍師としての才も発揮し、政宗の参戦した主要な戦の殆どに出陣し、伊達氏の危機を幾度も救っている。政治面では外交の取次を担当した他、豊臣秀吉の小田原征伐の際は豊臣側に付くことを勧め参陣を決定づけさせた。
関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれ、小十郎は特例として残された白石城1万3000石の城主を賜る。
当時は病(おそらく糖尿病)を患い亘理領内の神宮寺村で療養した後、慶長10年(1605年)に白石へ移った。
慶長19年(1614年)の大坂の陣では病床に臥していたため政宗に従うことができず、嫡子の重綱(後の重長)を参陣させた。
元和元年(1615年)、病のために死去。享年59歳。
生前の活躍から人望も篤く、彼を慕った家臣6名が殉死したと言われている。
逸話
前述通り、内政・軍略など伊達家のブレーンとして活躍したとされるが、一説では剣術にも精通した智勇の将であったとされ、幼少の政宗に剣術指南を務めたとも言われる。
また、大変な笛の名手であったともされる。
政宗は幼い頃、疱瘡(天然痘)を患った際出来物をかきむしって毒が右目に入ってしまった。
細胞が死滅した右眼球は眼底から垂れ下がり、その様があまりにも不気味であったため、自分の顔を厭った政宗は人嫌いになり、他人を寄せ付けなくなってしまう。
守役であった小十郎はこの状況を好とせず、政宗とその父・輝宗を説得し眼球除去を行った。
その方法は政宗の体を縛り、麻酔をかけないまま小十郎が短刀でえぐるという凄まじいものであった。
以後、政宗は出血多量に拠る高熱にうなされ、生死をさまようこととなり、小十郎はもしこれで政宗が死んだら、守役一同自害してわびる覚悟であったと言われている。
また、その忠誠心には凄まじいものがあり、政宗より先に子(重長)を授かった時には「主君より先に子を授かってしまうとはなんたる不忠!」と産まれた子供を殺そうとしたほどだったという(主君の政宗はじめ周りが全力で止めて事無きを得たが)。
ちなみに、この時政宗がしたためた「お前生まれた息子を殺す殺す言ってるみたいだけどやめてあげなさいよ(意訳)」という内容の手紙が現存していたりする。
各作品における小十郎(景綱)
片倉小十郎(戦国無双)
CV:竹内良太
詳しくはこちらを参照
片倉小十郎 (戦国BASARA)
CV:森川智之
詳しくはこちらを参照
華麗・片倉小十郎(戦国コレクション)
CV:今井麻美(アニメ版)
詳しくはこちらを参照
関連タグ
片倉重長(実子「鬼の小十郎」)