この言葉は東アジアでの用法と、ヨーロッパでのMargrave・Marquessの訳語としての用法があり、意味が異なる。事情は爵位の項目に詳しい。
東アジアでの侯爵
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五つの爵位(五爵)の第2位にあたる。
殷周では「侯」が地方領主をさす基本語となっており、漢語で地方領主を総称して「諸侯」と呼ぶのもこのためである。もっとも、始皇帝以降は中央集権化が進んで封建領主は存在しなくなり、分裂時代の君主は皇帝や王を名乗ったため、独立君主としての諸侯は存在せず公侯伯子男の五爵は儒教的な価値観に基づく称号・貴族階級となった。
戦前の日本では属する宮家から最初に臣籍降下した皇族(王)、清華家の家格である公家、徳川御三家、十五万石以上の大名、明治天皇の外祖父たる中山家(羽林家の家格である公家)、明治維新の際に功績のあった者などに与えられた。例えば、旧熊本藩主・肥後細川家の当主などが叙されている。
この他、旧琉球王も侯爵に叙されている。また、併合後の朝鮮貴族としては事実上最高位の爵位であり、一部の勲功者と旧王族出身者のみがこの地位にあった。
ヨーロッパでの侯爵
ヨーロッパ貴族を呼ぶ場合、侯爵はゲルマン語の称号Markgraf(辺境伯)、およびそれに由来するMargraveやMarquessの訳語に充てられている。Markgrafの役割は神聖ローマ帝国の国境警備であり、そのため大きめの領地や軍権を与えられ、後々勢力を拡大し公爵に匹敵するブランデンブルク選帝侯のような封建君主まで現れた。バーデン辺境伯やトスカーナ辺境伯の領地も広く後に大公国(grand duchy)となっている。他にLandgraf(方伯)やPfalzgraf(宮中伯)の中からも公爵に匹敵する大勢力となったものが出た。
現在も独立国家としての侯国としてリヒテンシュタインがあるが、日本では「公国」と訳されたり、当主が「大公」と称されることもままある。
ドイツ以外では独立性のある領主としての侯爵が現れることはなく、中央集権が成立した後に伯爵より上位で公爵よりは下の爵位として導入された程度であった。フランスではフランク王国時代にブリトン人との国境地域にブルターニュ侯がいた程度で、後々の扱いもルイ15世のころになって王の愛妾に名目的に与えられる程度の普及度であった(ポンパドゥール侯爵夫人など)。イギリスにおいても、伯爵よりやや高いという程度の箔付けに使われた程度であった。