ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

艦隊これくしょん」に登場する駆逐艦娘については、「朝霜(艦隊これくしょん)」を参照のこと。

概要

旧日本海軍の駆逐艦の1隻で、藤永田造船所にて建造された夕雲型駆逐艦の16番艦。太平洋戦争の戦況が悪化した1943年11月27日に竣工した。

翌1944年2月10日に長波一隻だけになっていた第三十一駆逐隊に、岸波、沖波とともに編入。

初陣となる船団護衛において、米潜水艦一隻を撃沈、一隻を潜望鏡破損による撤退に追い込む大手柄を挙げ、その後も船団護衛や対戦警戒に従事した。

高雄型重巡の護衛にあたる

10月のレイテ沖海戦では栗田艦隊に所属し、米潜水艦ダーターの攻撃により航行不能に陥った高雄を長波ともども護衛する。その直前、高雄の同型艦である摩耶が同じ米潜水艦デイスの雷撃で轟沈した。愛宕もダーターの雷撃で横転、のち沈没するが、朝霜は危険を承知で岸波と共に愛宕の乗員救出を行う。米軍の記録によると、朝霜と長波は度々対潜哨戒を行うことでダーターとデイスを寄せ付けず、そのスキに高雄は無事航行能力を取り戻している。朝霜、岸波の2隻は、第二艦隊旗艦でもあった愛宕の通信員を多く乗せていたため、本来は駆逐艦が解読仕切れない数の暗号も解読し、戦況の情報を詳しく知ることができたという。

11月には第四次多号作戦に参加。オルモック湾までの第四次船団護衛は成功させたが、この際、同型の秋霜が大破、マニラ湾空襲で着底してしまった。その上、続く第三次船団護衛の際に大空襲に見舞われた結果、船団は朝霜ただ一隻を残して全滅してしまう。この第三次船団は14日に出撃予定となっていたが、前日のマニラ湾空襲がもとで出撃が遅れていた。

その後清霜とともに第二駆逐隊を編成、礼号作戦に参加するが、ここで清霜が沈没する。

司令部幕僚に見殺しにされ・・・総員戦死の最期

今度は初霜が属している第二十一駆逐隊に編入され、北号作戦で内地に帰還した。既に船体に多くの損傷があった状態ではあったが、入渠する事なくそのまま天一号作戦に参加することが決定。朝霜は満足に修理もできないまま呉から佐世保に移動することになるが、その際、蝕雷したを曳航し呉に戻っている。

天一号作戦において、当初朝霜と初霜の二艦は参加を予定されていなかったようで、同じく天一号作戦に参加する大和矢矧といった大型艦への燃料移乗が指示されていた。しかし直前になり朝霜と初霜の参加が決定し、ここで2隻の運命が決してしまった。

4月7日早朝、朝霜は突然、左舷タービンのクラッチが焼きつき、結果12ノットしか出せなくなってしまい艦隊から落伍。米軍航空隊に発見された朝霜は、集中攻撃により爆沈。

天一号作戦参加艦艇中唯一の総員戦死であった。

酷使によって機関に故障癖を抱え、その上ろくにオーバーホールもできないまま放置したことがあだとなり轟沈した朝霜ではあるが、実際のところは、急な作戦召集のため満足のいく修理を行う時間がなかった面が強く、轟沈にいたる原因をつくったのは、司令部の幕僚が、落伍した朝霜に対し救援する素振りも見せなかったことにあるといえる。

他方、初霜はなんとか若狭湾に戻り、大破着底状態で終戦を迎える。朝霜の轟沈にともない夕雲型最後の生き残りとなった秋霜もまた、マニラ湾で木曾とともに大破着底状態にあったが、そろって終戦を迎えた。初霜と秋霜はその後、1951年と1955年に相次いで解体されている。

なお朝霜の慰霊碑は、静岡県三島市の妙法華寺に建立されており、そちらには、本艦により乗組員492名の生命が救われた愛宕の慰霊碑も並ぶ。朝霜の艦名はこの1代で断絶したが、愛宕の艦名は海上自衛隊イージス艦に受け継がれた。

関連項目

夕雲型駆逐艦

あたご(イージス艦)

関連記事