見ての通り、海軍が陸軍の口出しにイラついていく様子を表現した言葉。
概要
大東亜戦争の敗戦が思い返される際に、戦後の日本においては一貫して『陸軍悪玉・海軍善玉論』があげられ、簡単に要約すると、「世間知らずで頭の硬い陸軍が、世界情勢を冷静に判断せず、列強を相手に強硬姿勢で負けると解っていて無謀な戦争を始め、逆に海軍は世界情勢に詳しく通じ、日本の国力を冷静にみており反戦の立場だった」というものである。
しかし、これは事実に反したとんでもない俗説である。
実際は敗戦の原因の多くは海軍の側にあるとされており、陸軍からほぼ完全に分離独立した状態だった海軍の秘密主義・閉鎖主義・組織温存主義によって、虚為と捏造の戦果報道が繰り返されたため、戦争後半の戦略を大きく誤らせてしまったとされている。
陸軍と海軍の戦略の違い
まず始めに重要なのが、陸軍の戦略は伝統的に『北進論』であり、対して海軍の戦略はその逆の『南進論』であることである。
北進論とは大陸側へ向けて進む戦略であり、そのため陸軍にとっての仮想敵国はソ連(ソビエト連邦)だった。
対して南進論とは、太平洋側へと進む戦略で、ゆえに海軍にとっての仮想敵国は米国(アメリカ合衆国)であり、すなわち太平洋戦争とは海軍の戦争だったのであり、海軍がリードしていた戦争だった。
国を挙げて一丸となって戦略を立てるべき時に、海軍と陸軍が国を二つに分けて別々の戦争をしている状態となってしまった。
言うなれば陸軍が大東亜戦争を戦い、海軍が太平洋戦争を戦ったようなものと言える。
海軍が分離独立した原因
こうした陸軍と海軍がそれぞれ分離独立した原因を作り出したのが、明治海軍の山本権兵衛将軍とされている。
1893年(明治26年)に、日清戦争直前で海軍軍令部が設立されたことにより、海軍は陸軍から独立性を獲得したが、この時はまだ陸軍参謀本部の中に含まれており、当時は海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)だった山本将軍は、軍令部の独立を主張していた。
その後の日露戦争における日本海海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を撃破し栄光の頂点に達し、日露戦争後は陸軍から完全に独立した別個の権力機構の設立を要求し始めた。
そして1933年(昭和8年)、海軍軍令部は軍令部と改められ、ついに陸軍参謀部と同等同格の組織へと昇格したのである。
これはいわば海軍が陸軍から飛び出して、別の独立王国を作ってしまったようなものである。
これにより、海軍は陸軍とは全く関係無しに独自の国防戦略を策定することが可能となり、別々の独立した二つの統帥系統が並んでしまう事態となってしまった。
もちろん最終的には大元帥である天皇陛下に収束されるのだが、これは他国における大統領などと同様で、あくまでも国家元首である故の建前であり、具体的な作戦指揮を取るわけではない。
バルチック艦隊を破った目も眩むような偉業から神格化されてしまった海軍の神秘的なイメージが、このような事態を引き起こしてしまったと言える。
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陸軍としては海軍の提案に反対である(元ネタ)