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自由インド仮政府の編集履歴

2016-12-19 22:46:17 バージョン

自由インド仮政府

じゆういんどかりせいふ

自由インド仮政府とは、イギリスの支配下にあったインドの独立を成し遂げるために樹立した戦闘的組織である。ヒンディー語:आर्ज़ी हुक़ूमत-ए-आज़ाद हिन्द

概要

インドの独立運動家であるスバス・チャンドラ・ボースが、協力を求めた大日本帝国の全面的な支援の下、イギリス領インド帝国としてイギリスの植民地支配下にあったインドの即時独立をめざし、自身を指導者として当時日本の統治下であった、東南アジアシンガポールにおいて樹立させた暫定政権である。

ヒンディー語表記は「आर्ज़ी हुक़ूमत-ए-आज़ाद हिन्द」


誕生経緯

ボース日本へ

日本軍のマレー沖海戦における大勝利と、藤原岩市少佐率いる特務機関F機関の活躍によるインド国民軍の結成に、インド国民が歓喜の声を上げていた頃、独立運動の協力を求めドイツに身を置いていたスバス・チャンドラ・ボースは、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して大使館と接触するようになった。


この状況下において、イギリスはインドを連邦自治領として、日本インドの接近に楔を打とうとしたが、それまでボースの今が独立の好機であるという訴えかけに、曖昧な態度であったインド国民会議派は、マハトマ・ガンディー指導のもと1942年8月8日に、「イギリスよ、インドから撤退せよ」という強固な決議を出した。

宗教家兼政治指導者として、インド国民に絶大な支持があったガンディーの影響力を危惧したイギリスは、1942年8月9日にガンディーを検挙し、2年間拘留した。


その後ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースモハンシン大尉の強い要請もあり、大本宮はボースの受け入れを決定し、マダガスカル島沖でドイツの潜水艦U180から日本の伊号潜水艦(伊29)に乗り移り、1943年5月5日に日本占領下のマラッカ海峡のサバン島に到着し、休む間もなく東京へ飛んだ。


ボースは東條英機首相と会見し、その会見において、「インド独立のため、日本は無条件で援助してくれますか。政治的なヒモがつかぬことを確約してくれますか」と要請し、初め東條首相はボースをあまり評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していたが、しかしボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた。


再会談でボースと東條首相は、日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、ボースの要請を確約してその後食事会にボースを招待し、東條首相はボースの影響でインドに対する考え方を新たにした。


またボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考え、ボースに全面的に協力することを約束した。

こうして東條首相の確証を得たボースは、本格的にインド独立に向けて始動する。


仮政府樹立

1943年6月19日、記念すべき記者会見が、それまで着けていた覆面を脱ぎ、帝国ホテルで行われ、その後1943年6月27日、黒山のインド人群衆が押し寄せていたシンガポールの飛行場に到着し、山下奉文大将指揮下のにあった、F機関藤原岩市機関長とモハンシン大尉が組織化した、インド国民軍の儀仗兵一個大隊に出迎えられる。


そして1943年10月23日、日本政府はボースを首班として同年10月21日に樹立した自由インド仮政府の樹立をを正式に承認する。

この自由インド仮政府は、イギリスのインド植民地支配以来、初の独立政府であり、日本政府は将来インドが真に解放される日まで、各般にわたり全面的に支援することを決定した。


チャンドラ・ボース首班は、同年10月24日に正式にアメリカイギリスへ戦線布告を宣言した。

そして、同年11月の大東亜会議には、オブザーバー(準資格参加者)として参加する。ボースはそのカリスマ的魅力で、国民軍の募兵を積極的に行った。


自由インド仮政府の初閣議において、インド民族の結束を強めるべく、インド人同士が交わす挨拶の全てを「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」に統一し、ボース首班を「ネタージ(総領)」と呼ぶことに統一された。


そして『自由インド仮政府樹立』宣言において


「……インド独立政府は成功への諸条件を獲得した。いまや最終的闘争決行のみが残された問題である。それは国民軍がインド国境を越えて、デリーへの歴史的進撃に乗り出すときにはじまり、独立旗がニューデリーの総督官邸の上に掲揚されるときに終わる」


と演説し、最後に壇上から「チェロ・デリー チェロ・デリー」(征け、デリーへ)と呼びかけ、インド国民軍とインド民衆二万人が唱和し、地鳴りのように轟いた。


ボースの尽力による、自由インド仮政府の樹立にインド国民は熱狂し、国民の怒りは支配するイギリスに向けられていった。

関連タグ

インド インド国民軍

インド人

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