(以下ネタバレ回避スペース)
概要
「けものフレンズ」とは、たつき監督が「ほっこり見られるアニメ」と言っていた通り、「ジャパリパークに暮らすフレンズはみんな仲良し!のけものなんていない!」的な友情テイストが全体に溢れ、時には動物園のおにいさんおねえさんやラッキービーストの解説を聞きながら、擬人化された動物に関する見識を深める教育番組的側面もある、ほのぼのとした癒しアニメ……
……だった。
だが、今第11話の展開により、それが根底から覆されることとなる。
(以下、ネタバレにつき閲覧注意)
かばん達の前に現れた巨大な黒色のセルリアン( 以下「黒セルリアン」)は、火山から放出されるサンドスターローを取り込み、自己修復・巨大化をするという凶悪な個体だった。セルリアンハンターのヒグマやキンシコウの手にも負えない強敵だったが、ミライの残したメッセージやアライグマ・フェネックの助力もあり、かばんはサンドスターローの放出を封じ、黒セルリアンの更なる自己修復と巨大化をくい止めることに成功する。
(ちなみにここで流れたミライのセリフに「この島に『あんなもの』を……」というものがあり、直前のカットにてB-2ステルス爆撃機や哨戒機、ミサイルと思われるものの残骸が確認され、過去に対セルリアンの何かしらの大規模な軍事作戦があり、しかも失敗に終わったらしき事が匂わされている)
しかし黒セルリアンを倒したわけではなく、その規格外れの巨大さ・堅牢さは健在である為、かばんは一計を案じる。それは、セルリアンの走光性(※)を利用して港まで誘導し、船ごと海に沈めるというものだった。光源が少なくなる夜になってから、ジャパリバスのヘッドライトを利用して黒セルリアンの誘導を始めるかばん達。ラッキービーストの運転技術もあって、作戦は成功するかに思われた。
ところが、黒セルリアンは四足歩行から突如直立し、倒れ込んで地響きを起こすという知恵を駆使してきた。そのあおりを受けてバスはあっけなく転倒し、振り下ろされた黒セルリアンの前肢からかばんとラッキービーストを助けたサーバルが黒セルリアンに飲み込まれてしまう。
顔面蒼白のかばんに、駆け付けたヒグマは「冷静になれ、松明で誘導しながら海まで走るんだ」と叱咤し、ラッキービーストを抱えて走り出すが、その横にかばんの姿はなかった。かばんはサーバルを助けようと、縄を木の幹にくくり付けて腰に巻き、樹上から黒セルリアンの体内に飛び込みサーバルを救出する(ここが第1話の伏線回収となっている)。
視聴者がほっとしたのも束の間、黒セルリアンがかばんに気付いた上に、助け出されたサーバルは目覚めない。覚悟を決めたかばんは松明に火をつけ、サーバルから黒セルリアンの気を逸らすべく走り出す。そして、再度黒セルリアンの前肢が振り上げられたのを見届けたかばんは立ち止まり、気を失ったままのサーバルに向けて、寂しげな笑顔を浮かべながら声をかける。
「ありがとう、元気で」
次の瞬間、轟音と共に黒セルリアンの前肢がかばんに叩きつけられ画面を覆い尽くし、暗転。EDが流れ始める。
上記の本編内容だけでも充分に視聴者に衝撃を与えた11話だったが、追い打ちをかけるように本編後のEDでは10話までいたフレンズのシルエットが全て消え去ってしまう。
更に次回予告までもが、埃まみれの看板と雑草で荒れ果てたセットの中にラッキービーストの頭部のみが映り、コウテイペンギンの簡素なタイトルコールだけで締めくくられた。いつものPPPの賑やかでゆるいやり取りはまるで幻だったかのように。
けものフレンズの世界観にどっぷりとハマっている状態でのこの展開に、フレンズ化している視聴者達に激震が走った。
ネット上では「どうせみんないなくなる」など悲観的な声も上がっている。そして、その中の意見には「たつき監督はこの話の展開より某脚本家と関係があるのではないか?」という意見もあるが、これに関しては全くもって関係はない。その一方で、「たつき監督を信じろ」と希望を捨てない視聴者も多くいる。
ただし、これまでの細かな描写・伏線が一気に回収され、まさに最終回に近づいていることが体感できる素晴らしい展開になっているのも重要なファクターだろう。
※走光性(そうこうせい):生き物が光の刺激に反応して移動する性質。ことわざにある「飛んで火に入る夏の虫」は、この性質に起因する。厳密には光に集まる行動を「正の走光性」、光を遠ざける行動を「負の走光性」と分別される。
光に限らず、生き物が特定の刺激に反応して移動する性質全般を走性と呼ぶ。単細胞生物や昆虫の様な原始的な生物の特徴であり、脊椎動物にも備わっているが、魚類、両生類、爬虫類の順でこの性質が薄まり、哺乳類と鳥類に至ってはこの性質が消滅している。
もしセルリアンが生き物なら非常に原始的な生命体と言う事になる。
しかしサーバルちゃんが「フレンズによって得意な事が違うから!」と言っていた様に、原始的である事が貧弱であるとも脅威にならないとは限らないと肝に銘じるべきだろう。