今井信郎
いまいのぶお
幕臣、京都見廻組の隊士、衝鋒隊副隊長。
坂本龍馬を暗殺したとされる人物としても知られる。
経歴
天保12年(1841年)、江戸で幕臣今井安五郎の長男として生まれる。10歳で元服し湯島聖堂に出仕。18歳で直心影流の榊原健吉に入門し、2年で免許皆伝を受けた。片手打ちという独自の剣技を編み出したが、試合で相手の頭蓋を割って殺害してしまったため、師から使用を禁止されたという。
文久3年(1864年)、神奈川奉行所取締役窪田鎮章の配下となり、ここで後に衝鋒隊隊長となる古屋佐久左衛門と出会った。
慶応3年(1867年)に上洛し、10月京都見廻組に編入される。11月15日、佐々木只三郎らとともに坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に関与したとされる。
戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦いに幕府方として参戦するが敗北し江戸に帰還。
古屋佐久左衛門とともに、鳥羽伏見の戦いで戦死したかつての上司窪田鎮章配下の残存兵らを衝鋒隊として再編し、信濃や越後を転戦。榎本武揚らに合流し箱館戦争まで戦い抜いた。
新政府軍に降伏後、坂本・中岡殺害について尋問される。今井は殺害への関与を認めつつも、公務であり罪には当たらないと主張し禁固刑となった(西郷隆盛による助命嘆願があったという俗説がある)。この時獄中で大鳥圭介から英語を学んだという。
明治5年(1872年)に特赦を受けると、徳川家の転封先であった静岡に移り、教師や官吏、村長などを務める。
西南戦争が起こると、かつての衝鋒隊士を集め西郷軍に協力しようとしたが間に合わなかった、という俗説もある。
また当初はキリスト教に偏見を持っていたが、後にその教義に感銘を受けてクリスチャンとなった。坂本龍馬の甥で養子の坂本直がキリスト教式の龍馬の法要を開いた際にはこれに出席している。
大正7年(1918年)、脳卒中で死去。享年78。